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烏猫の箱庭  作者: 彩︎華じゅん


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4/4

第4話

 地獄のような担当者会議から、数日後のことだった。

 ナエの担当ケアマネージャーから、一本の電話がかかってきた。

 やけに早いタイピング音の響く事務所。PCデスクでリハビリ記録を付けていた有紗ありさの後ろに佇んだ早苗さなえは、沈んだ面持ちで口を開く。


田鎖たくさりさん……あの……」


「ナエさんのことですね? 聞いてます」


 思った以上に淡々とした声音であった。


「田中さんと代表何人かで午後ご焼香に行くんです。田鎖さん、何か予定ありますか?」


「いえ。用意しておきます」


――――


「Nさん、元気だったのにねぇ〜」


 片山宅に向かうハイエースの中。パーマのかかったショートカットの施設長、山本がひとりごちる。


「ですね~。手もかからないし、ニコニコしてて可愛いし。このまま特養入所してくれないかな~なんて思ったんですけどね」


 答えたのは、セミロングの茶髪を一つにくくった介護主任、田中だ。


「あそこのお嫁さん、送迎行くといっつもニコニコ挨拶してくれてさ。持ち物にもきち~んと名前書いてくれて。本人も家族もほんといいお客さんだったよね」


「長く利用してほしかったですね……残念だな」


「いい人から亡くなってくのよね。世の常」


 山本と田中が次々繰り広げる会話を、運転席の早苗は聞くともなしに聞いていた。焼香に行くというのに、カーステレオからは軽快な歌謡曲が流れていて、それが何だか場違いに思えた。


「でもさぁ、可愛いおばあちゃんだったけど、あたしやっぱあの人の臭いだけはどうしてもダメだったわ」


 ボリュームを下げようとつまみに伸ばした手が、止まる。


「分かります。あの魚が腐ったみたいな臭いですよね。あの人が乗ると送迎車の中が臭くて臭くて……。シートに染みついた臭いも取れないし。ワゴンしか配車できなかったから送迎スケジュール組むの結構大変でした……」


「家も綺麗だし服もちゃんとしてるのに、何で臭いだけあんなだったんだろうね?」


 今まで、誰もそんなことを言ってはいなかった。まるで、臭いなんて存在していないかのように送迎し、体を洗い、毎日のケアを提供していた。

 そのはず、だった――


「そろそろ着きます」


 ラジオが止まる。見ると、助手席の有紗がステレオのボリュームボタンを押していた。


「上着、着ておきましょう」


「これ暑いからあんまり着たくないんだよね。エアコンつけちゃってもいい?」


「つけましょつけましょ。熱中症注意ですし」


「まだ5月ですけどね」


 面々は、パステルカラーのポロシャツを隠すように、紺色のブルゾンを着込んだ。


――――


 片山宅は、相変わらず花に囲まれて鎮座ちんざしていた。

 山本が玄関チャイムを晴らすと、喪服に身を包んだ雅美が姿を現した。ふわり、白檀びゃくだんが香る。


「この度はご愁傷さまでした。ナエさんのご焼香をと思って伺ったのですが、よろしかったでしょうか?」


 先ほどの軽口など微塵みじんも感じさせない。神妙に下を向いた山本がそう言うと、雅美は口元に笑みをたたえた。


「まあ皆さんお揃いで。わざわざありがとうございます。最後の最後まで……。どうぞ」


 長い廊下を通って通された広い和室。棺の中に横たわるナエに、一人ずつ死に水を差し、菊の花を手向けた。

 目を閉じたその顔は、おちゃらかを歌っていた時と何も変わりはなくて、早苗はこみ上げる涙をおさえることが出来なかった。

 しゃくりあげる早苗を優しい眼差しで見た雅美は、慰めるように彼女の背に触れた。


「こんなに泣いていただけるなんて、おばあちゃんは幸せ者ですね」


 声が震え、雅美自身も目頭をハンカチで押さえる。


「デイで撮ったっていう写真、遺影に使わせていただいたんですよ。ほんとにいい顔で……皆さんに、大切にしてもらったんだって……」


 続きは、声にならなかった。

 肩を震わせる雅美に、田中は低く、静かに言葉をかける。


「雅美さんも最後まで介護頑張りましたよ。雅美さんがいたから、ナエさんだって安心して暮らせたんだと思いますよ?」


 山本も言葉を重ねる。


「そうですよ。こんなにマメにやってくれるお宅なんて、そうそうなかったです」


「です、ね……」


 下を向いた有紗が、マスク越しに声を上げる。

 さっきまでエアコンがどうの熱中症がどうのと言っていたくせに。この人たちは、どうして――

 あふれる涙の中、早苗は心の中で毒づいた。


――――


 一行が焼香から戻り、いつも通り営業を終えた事務所の中。

 デスクに向かう早苗の耳に、ガチャリという音が聞こえた。そこにいたのは、リハビリ用具の入った箱を抱えた有紗であった。


「まだ残っていたんですか?」


「はい。ナエさんのケース記録まとめてて」


 既にユニフォームから私服に着替えた有紗は、淡々と「お疲れ様です」と言って棚に箱をしまう。そして、早苗に背を向けたまま、言葉を紡ぐ。


「……どうして、皆さんに言わなかったんですか?」


「何のことです?」


「自殺だったんでしょう?」


 書類を整理していた早苗の手が止まる。


「何で知ってるんですか?」


「勤務年数はあなたより長いので。色んなところから情報が入ってきます」


 静かな室内にタプタプと軽い音が響く。

 有紗が、ポケットから取り出したスマホに何かを打ち込んでいるようだった。


「恐らく、言わないだけで他の皆さんも知っていますよ」


「そう、ですか……」


 隠していたわけではなかった。いずれは言うべきことだというのも、分かっていた。ただ、どういう文脈で伝えたらいいか、早苗には分からなかった。


「なんか……モヤモヤしちゃいますね」


 この人に、ぶつけていいものか――

 スマホの画面を見続ける有紗を、そっと覗い見る。


「そんなものです」


 どうやら入力を終えたらしい。顔を上げた有紗と、視線がぶつかる。

 彼女はにこりともせず、メガネの奥の目をふいと背けた。


「周りに助けてくれる人がたくさんいても、どうにもならないことってあるんですね」


 判断すら危うく、体も思うように動かないナエがどうやって死を選ぶに至ったのか――考えたくもなかった。


「ええ、でも、私たちにはもう関係ない話です」


 小さく言った有紗は髪をくくっていたゴムを外し、小さなくしで髪をき始める。


「それは……ちょっと冷たくないですか?」


「そうかもしれませんね。でも、気持ちの切り替えは必要かと」


 蛍光灯の光を跳ね返し、黒々とした長髪が解きほぐされる。


「そうでないと、あなたも佐藤さんのように――」


 一瞬、手が止まる。


「ああ、これは聞かなかったことにしてください」



――――



 ナエの焼香に行ってから、半年が経った。

 早苗は、ケアマネージャーから紹介を受けた利用希望者の自宅に向かっていた。見覚えのありすぎる山道、知っている道のりに、彼女の心は鉛のように沈んでいた。

 たどり着いたのは、かつて有紗と訪れた片山宅。以前と違い、玄関の両脇を飾っていた花はすっかり刈り取られており、おびただしい量の猫も、カラスも、どこにもいなかった。

 インターホンを鳴らした彼女は、送話口に向かって声をかける。


「こんにちは。花柳はなやぎデイサービスの虫壁むしかべです。担当者会議で――」


「ああ、いらっしゃい。どうぞ」


「失礼します」


 玄関を開けた初老の男性は、早苗をダイニングへと誘う。


「ばあちゃん片付いたと思ったら今度は母ちゃんときてさぁ……全くイヤになるよな」


「ご本人……調子はどうですか?」


 長い廊下。家の中は以前と同じように片付いていて、掃除が行き届いている。ただ一つ違うのは――


「会ってやって。ほら、母ちゃん。相談員さん来たよ。お世話になっただろ? 挨拶しな」


 あの鼻をつくような臭いが、全くしなかった。


「おちゃ、らか……おちゃ……らか……ほい、ほい、ほい……」


 微かな歌声。声の主は、リビングのソファにだらりと身を預けた老婆だった。


「ほら母ちゃん! 雅美! 相談員さん来たって!」


 その人は、夫の声に反応せずただ虚空を見つめていた。

 疲れたような笑みを浮かべていた顔は無で、きれいに白髪染めされていた髪は、真っ白に変わり果てている。

 彼女の意識をこちらに向けようと声をかける男性の後ろで、早苗は目を閉じて小さな息を漏らす。


「この調子でさ。ずーーっと歌ってばっかで、話なんかできゃしないんだよ」


「そう……でしたか」


「花柳デイはさ、俺も一緒に体験利用できたりすんの? 色々あったけど、ばあさんの介護でもお世話になったからさ、どんなとこか見ておきたいと思ってさ。そのうち夫婦でお世話になるかもだしな」


 男性の言葉に曖昧な笑みを返した早苗は、明るい声音で言葉を返す。


「ええ、大丈夫ですよ」

 彼女はにこりともせず、メガネの奥の目をふいと背けた。

「周りに助けてくれる人がたくさんいても、どうにもならないことってあるんですね」

 判断すら危うく、体も思うように動かないNがどうやって死を選ぶに至ったのか――考えたくもなかった。

「ええ、でも、私たちにはもう関係ない話です」

 小さく言った有紗は髪をくくっていたゴムを外し、小さな櫛で髪を梳き始める。

「それは……ちょっと冷たくないですか?」

「そうかもしれませんね。でも、気持ちの切り替えは必要かと」

 蛍光灯の光を跳ね返し、黒々とした長髪が解きほぐされる。

「そうでないと、あなたも佐藤さんのように――」

 一瞬、手が止まる。

「ああ、これは聞かなかったことにしてください」



――――



 Nの焼香に行ってから、半年が経った。

 早苗は、ケアマネージャーから紹介を受けた利用希望者の自宅に向かっていた。見覚えのありすぎる山道、知っている道のりに、彼女の心は鉛のように沈んでいた。

 たどり着いたのは、かつて有紗と訪れたK山宅。以前と違い、玄関の両脇を飾っていた花はすっかり刈り取られており、夥しい量の猫も、烏も、どこにもいなかった。

 インターホンを鳴らした彼女は、送話口に向かって声をかける。

「こんにちは。花柳デイサービスの虫壁です。担当者会議で――」

「ああ、いらっしゃい。どうぞ」

「失礼します」

 玄関を開けた初老の男性は、早苗をダイニングへと誘う。

「ばあちゃん片付いたと思ったら今度は母ちゃんときてさぁ……全くイヤになるよな」

「ご本人……調子はどうですか?」

 長い廊下。家の中は以前と同じように片付いていて、掃除が行き届いている。ただ一つ違うのは――

「会ってやって。ほら、母ちゃん。相談員さん来たよ。お世話になっただろ? 挨拶しな」

 あの鼻をつくような臭いが、全くしなかった。

「おちゃ、らか……おちゃ……らか……ほい、ほい、ほい……」

 微かな歌声。声の主は、リビングのソファにだらりと身を預けた老婆だった。

「ほら母ちゃん! M美! 相談員さん来たって!」

 その人は、夫の声に反応せずただ虚空を見つめていた。

 疲れたような笑みを浮かべていた顔は無で、きれいに白髪染めされていた髪は、真っ白に変わり果てている。

 彼女の意識をこちらに向けようと声をかける男性の後ろで、早苗は目を閉じて小さな息を漏らす。

「この調子でさ。ずーーっと歌ってばっかで、話なんかできゃしないんだよ」

「そう……でしたか」

「花柳デイはさ、俺も一緒に体験利用できたりすんの? 色々あったけど、ばあさんの介護でもお世話になったからさ、どんなとこか見ておきたいと思ってさ。そのうち夫婦でお世話になるかもだしな」

 男性の言葉に曖昧な笑みを返した早苗は、明るい声音で言葉を返す。

「ええ、大丈夫ですよ」

END

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