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烏猫の箱庭  作者: 彩︎華じゅん


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第2話

 用があると言って帰ってしまったケアマネージャーを見送った早苗さなえ有紗ありさは、雅美からサービス計画書や機能訓練計画書への署名捺印をもらう。

 一通りの手続きを終え、マスクの隙間から茶碗のお茶を飲み干した有紗は「では、私たちもこれで」と帰り支度を始めた。


「ありがとうございました。これからもおばあちゃんをよろしくお願いしますね」


 ほがらかな、少し疲れたような笑顔。

 雅美に見送られて玄関を出た2人は、ただ無言で坂道を下った。

 あの家について、何から聞いたらいいものか、どう聞くべきか、早苗の頭を占めるのはそればかりだ。

 運転席に乗り込み、シートベルトを締める有紗の横。カバンの中を確認した早苗は、書類の一つを中に忘れてきたことに気付く。


「あっ! すみません。ちょっと忘れ物。取ってきます」


「え、虫壁むしかべさん、待っ……」


 焦ったように声を上げる有紗をおいて車を降りた早苗は、陸上で鍛えた俊足しゅんそくで家の前に舞い戻った。インターホンのボタンを押す。


「すみません、忘れ物してしまって……」


 だがしかし、呼びかけに応える者はなかった。


「すみませ〜ん」


 さっきまで話をしていたのだ。まさか、留守ということはないだろう。

 腕時計は11時20分をさしている。早く戻らなければ昼の食事介助の時間に間に合わない。

 それに何より、自分を射るいくつもの視線が、痛い――


「あの、入りますね……?」


 玄関ドアをそっと開けた早苗は、靴を脱いで家の中に足を踏み入れた。


(ほんと広いお家。迷っちゃいそう。さっき会議した部屋は確か……)


 甘く、気持ちの悪い臭気。軋む床板の上を滑るように足を動かした早苗は、暖簾のれんのかかった扉の前を通り過ぎる。確か、この先がリビングだったような気がしたのだ。


「すみません、失礼します。忘れ物を……」


 リビングの引き戸に手をかけようとした時だ。


「おちゃらか……おちゃらか……」


 途切れ途切れの、小さな歌声が聞こえた。


「え……」


 聞き覚えのあるその声に、体が、強張る。


「おちゃらか……おちゃらか……おちゃらか……」


 声は、今しがた通り過ぎた扉の向こう側から聞こえてくる。


「え……ナエ……さん……?」


 繊細せんさいな花の刺繍ししゅうが施された暖簾を、そっとかき分ける。

 飴色の扉板、両側に設えられた手すり、ドアノブ、結いつけられた、スカーフ――


(何これ……)


 思考が、追い付かなかった。

 スノードロップがプリントされたスカーフが、まるで、まるでドアノブを開かないように、手すりに固定しているように見えた。見えてしまった。

 背筋を、ひやりとしたものが伝う。


(ナエさん……中にいるの……?)


 もぞり、視界の端で、爪が研がれる。

 これはダメだ、見てはいけない、触れてはいけない――思考を支配する警告。振り子時計の音と、自分の心臓の音が交差する。足元から、違和感が立ち上って来る。臭いが肺を満たす。吐き気が、こみ上げる。


「おちゃらか……勝ったよ、ほい、ほい、ほい……」


 胸の内の嵐とは別の生き物のように、彼女の手は退避たいひを選ばなかった。光沢のあるスカーフの端を摘まみ、するり、結び目が、ほどけて、落ちる。

 引き下がるドアノブ、ドアの隙間、溢れ出す、悪臭。

 目の当たりにした光景に、全身がガタガタと震え出した。

 何の変哲もない寝室だ。ベッドがあって、人が寝ていて、猫が落ちていて、裸で、括られて、ハエが、動かなくて、猫の『ような』ものが、腐って、ハエが、人が――


「可愛いねえ……」


 呼吸のような、あえぐような声がした。


「お目目……くりくりで……可愛いねえ……」


 吐き気が――


「何……してるんですか?」


 背後から聞こえた声に、心臓が跳ねる。

 振り向いた先に、背の低い初老の女性。


「あ……と、雅美……さん……」

「何を勝手に入ってきてるんですか?」

「おばあちゃん、具合が悪いって言いました」

「今日は出られないって言いました」

「なのに、何で、どうして、あなたは、ここにいますか?」


 ばたりと閉まるドア。

 矢継ぎ早の声は無機質で、朗らかに笑っていた顔は、虚無だ。


「す、すみません! 忘れ物を……」


 震える声で弁解する早苗の胸倉が、掴まれる。


「どうして忘れ物なんてしたんですか?」

「相談員さんも私を疑ってますか?」

「おばあちゃんをいじめてるって! 虐待してるって! 疑ってるんですか!」


 ぎりぎりと、襟元が、締め付けられる。


「ちゃんとやってるのに! こんなに手をかけてるのに! どうして! どうして!」


 その剣幕が、揺さぶられる頭が、悪臭が、視線が、全てが、他人事のように遠ざかる感触があった。早苗が弁解を続けようと口を開いた時、玄関からドアの音がした。


「雅美さん、失礼します」


 入ってきたのは、息を切らせた有紗だった。


田鎖たくさり……さん……?」


 うつろな目の雅美が何か言うより先に、有紗は深々と頭を下げた。


「驚かせてしまって申し訳ありません。勝手に家の中に入るなんて、無礼を働きました」


「私たちは、雅美さんを疑ってここに来たわけではありません。私たちは、ナエさんと雅美さんが無理なく暮らしていけるようにお手伝いする味方です。雅美さん、味方なんです。敵じゃありません」


「その子、まだ学校を出たばかりでして……。少し常識がない部分があるんです」

「前任の佐藤が突然辞めてしまって、引き継ぎの足りないまま色んなことを覚えようと頑張っている最中なんです」


「こうならないよう、指導しておかなかった私の監督不行き届きです。帰ったら、きちんと指導します。今回は、お許しいただけないでしょうか」


 切れ目なく、一気にまくしたてた有紗を、雅美はしばらく呆けたように見ていた。


「……そう、ですか」


 振り子時計の上で、黄色い目が動く。


「そう、ですよね……味方……」


 うつろな目で、噛み締めるように呟いた雅美の手から、力が抜けていく。


「やだわ、そんなにお若いなんて思わなかった」


 胸倉を掴んでいた手が離れる。


「ごめんなさいね。私、おばあちゃんのことになるとつい……」


 戸惑ったように笑み。乱れた髪を撫でつけたその人は、最初に会った穏やかな雅美であった。


「い、いえ……すみません……でした……」


 腰が抜けそうだった。早苗がかろうじて立っていられたのは、後ろに立った有紗がさり気なくズボンのウエストを掴んでいたからだ。


「忘れ物、何だったんです? 早く見つけて……」


 2人の眼前に、書類が差し出される。


「これですよね?」


 穏やかな、笑み。


「落ちてましたよ。リビングの扉のところに」

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