第9話〜雑魚だ、雑魚
「へっ。雑魚だ、雑魚」
オニキスは鎧甲熊を見上げ、嘲るように口の端を吊り上げた。
「これが雑魚に見えるの!? 咆獣軍にいるレベルの魔獣じゃない!!」
「見えるも何も、雑魚じゃねえか。図体だけはいっちょ前だが、大した相手じゃねえ」
鎧甲熊の喉から、低い唸り声が漏れた。
赤く濁った目が細まり、太い前脚が湿った地面を掻く。鋭い爪に削られた土が、後ろへ大きく跳ね上がった。
オニキスは一歩、さらに前へ出た。
「さあ、来やがれ。俺様が相手してやる」
「ちょっと、オニキスくん!」
オニキスの挑発に、鎧甲熊が咆哮した。
森の空気が震え、木々に留まっていた雫が一斉に降り注ぐ。
直後、鎧甲熊は四肢で地面を蹴り、二人へ向かって突進した。
巨体からは想像もつかない速さだった。
地面を揺らす足音が瞬く間に近づき、岩混じりの地面を蹴って黒褐色の塊が迫る。
だが、オニキスは動かなかった。
鎧甲熊がどちらの前脚を先に出し、どの角度から爪を振るうか。その懐へどう潜り込み、どこへ拳を叩き込めば一撃で骨を砕けるか。
頭の中では、迎撃するための動きがすでに完璧に組み上がっていた。
あと三歩。
二歩――
実行に移ろうと腰を低く落とした瞬間だった。
オニキスの外套の襟元が強く引かれた。
「ぐぇっ!」
途端に小さな身体が地面から浮き上がった。
アメシスが左手でオニキスの首根っこを掴んだまま、横へ大きく跳んだのだ。
直後、オニキスが立っていた場所を、鎧甲熊の前脚が抉り飛ばした。
振り下ろされた爪が地面を砕き、土と小石が二人の身に降り注ぐ。
「何しやがる! 降ろせ!」
「危ないでしょう!」
「見りゃわかる!」
「わかっていて、どうして前に出るの!」
「俺様があんな雑魚に負けるか!」
アメシスは答える代わりに、宙吊りになっていたオニキスを引き寄せた。そのまま左腕を尻の下へ回して抱え直し、右手に持ったグレイブを鎧甲熊へ向ける。
「何で抱え直してんだ! 降ろせっつってんだろうが!」
「前に出て危ないからダメ!」
「俺をガキみてえに扱うんじゃねえ!」
鎧甲熊が牙を剥き出しにして、二人へ向き直った。
額から背に連なる鎧板のような皮膚が擦れ合い、硬い音を立てる。
再び巨体が迫る。
アメシスはオニキスを左腕で抱えたまま、横薙ぎにグレイブを振るった。
重い刃が鎧甲熊の鼻先を打つ。
魔獣は僅かに顔を背けたものの、その勢いは止まらない。振り上げられた前脚の太い爪が迫り、アメシスはグレイブの柄で受け止めた。
硬いもの同士がぶつかる音が、岩場に響き渡った。
アメシスの身体が後ろへ押され、靴底が土を削った。片手だけでは衝撃を受け流しきれなかったのだ。
それでも踏みとどまり、迫る牙を避けるように身を捻ると、鎧甲熊の首元へ刃を振り下ろした。
甲高い音とともに、刃が弾かれる。
鎧甲熊の首を覆う皮膚には、浅い筋さえ刻まれていなかった。
「硬い……!」
「鎧甲熊なんだから当たり前だろうが!」
「知ってるなら先に教えて!」
「聞かなかったのはテメェだろ!」
言い争いを続ける二人を横目に、三人の精霊は慌ただしく声を交わしながら、アメシスの周囲へ集まった。
風の精霊が鎧甲熊の目元へ風を吹きつけ、水の精霊が大気から集めた水を鼻先へ浴びせる。土の精霊も地面から細い根を伸ばし、太い前脚へ絡みつかせた。
だが、フルートの旋律を通じたアメシスからの魔力供給がなければ、精霊たちが振るえる力は僅かなものにすぎない。
風も水も鎧甲熊を怯ませるには至らず、細い根は、鎧甲熊が前脚を持ち上げただけで呆気なく引き千切られた。
「このままじゃ戦えねえだろうが。俺を降ろせ!」
「嫌よ。また前に出るでしょう?」
「出ねえよ!」
「さっきもそう言って――」
「言ってねえ!」
その最中、二人の横合いから鎧甲熊の前脚が迫った。
「アメシス!」
オニキスが叫ぶのと、アメシスが咄嗟に彼を胸元へ抱き込んだのは、ほとんど同時だった。巨体へ背を向けるように身を捻り、腕の中の小さな身体を庇う。
鋭い爪がアメシスの腕を掠め、外套と袖が大きく裂けた。
その下の白い肌にも赤い線が走り、遅れて滲んだ血が腕を伝う。
アメシスは衝撃に顔を歪めながらも、地面を蹴って鎧甲熊から距離を取った。
腕の中に抱かれたオニキスには、傷一つない。
「大丈夫? どこにも当たってない?」
「…………」
「オニキスくん?」
返事をしないオニキスの黒い目は、彼女の裂けた袖へ向けられていた。僅かな傷とはいえ、血が流れている。
その目が、鋭く細められた。
「さっさと降ろせ」
「でも――」
「テメェが俺を抱えてるせいで、笛も吹けねえ。得物も片手でしか使えてねえだろうが!」
オニキスの声には、先ほどまでとは違う怒気が滲んでいた。
「そのまま戦って、次も俺を庇うつもりか? ろくな立ち回りもできてねえそのザマじゃ、いつまで経ってもあいつを殺せねえぞ!」
アメシスは言葉を失い、オニキスの顔を見つめた。
鎧甲熊が鼻息を荒らげながら、再びこちらへ向き直る。
迷っている猶予はなかった。
「……わかったわ」
アメシスは近くにあった大岩へ駆け寄り、その上へオニキスを下ろした。
「ここから動かないでね」
「誰に向かって言ってやがる」
「大人しくしていてね」
「二度も言うな!」
オニキスの怒鳴り声を背中に受けながら、アメシスは鎧甲熊へ向き直った。
グレイブを両手で握り、刃を低く構える。
三人の精霊もその傍らに浮かび、鎧甲熊を見据えた。
アメシスは一度だけオニキスを振り返ると、地面を蹴って鎧甲熊へ駆け出した。




