第8話〜気に入らねえ
「村で待っていてもよかったんだよ?」
森の中ほどまで足を踏み入れた頃、アメシスが隣を歩くオニキスに声をかけた。
村を出てから、すでに一刻ほどが経っている。
森の浅い場所までは、村人たちが行き来することで踏み固められた細い道が続いていた。だが、人の手が入る範囲を抜けたあたりから草木は急に深くなり、いまは茂みのあいだを縫う獣道だけが、森の奥へ続いている。
「あんな場所に残るなんざ、ごめんだね。やなこった」
オニキスは足元の枯れ枝を踏み折り、不機嫌そうに吐き捨てた。
「子供たちもいるし、退屈はしなかったと思うけど」
「それが嫌だから来たんだよ!」
「ニィナちゃんたち、残念がるわね」
「知るか」
素っ気なく言い放ち、オニキスは苔むした木の根を跨いだ。
その横顔は、村を出てからずっと不満げに歪んでいる。
「……気に入らねえ」
「何が?」
オニキスの忌々しげな声に、アメシスはきょとんと首を傾げた。
「あの村の連中だ」
オニキスは一度足を止め、木々の隙間から遠くに僅かに見える村を振り返った。
「やたら歓迎してきやがると思ったら、結局これだ。最初からテメェに魔物退治を押しつけるつもりで、食い物や寝床を用意したんだろうな」
「考えすぎよ。みんな、本当に困っていたでしょう?」
「だから何だ。困ってりゃ、テメェに命を張らせてもいいのかよ」
「そんなこと、誰も言っていないわ」
アメシスは困ったように笑った。
「お願いされたから引き受けたんじゃない。事情を知れば、頼まれなくても自分から森へ来ていたと思うわ」
「それが一番気に入らねえんだよ」
低く吐き捨てられた言葉に、アメシスは紫の瞳を瞬かせた。
「私が決めたことよ?」
「食わせて、寝床まで貸して、村中で歓迎してから頭を下げる。テメェが断れねえのを見越してたなら、随分といい性格してやがる」
村へ着いたその日から食事と寝床を用意され、代金も求められないまま、二人の滞在は三日に及んでいる。その間、子供たちまで毎朝押しかけ、すっかり二人に懐いていた。
そのすべてが村人たちの思惑だったかは定かではない。だが、世話になればなるほどアメシスが頼みを断れなくなることは、傍で見ていたオニキスにも嫌というほどわかっていた。
「村長さんたちに、そんなつもりはなかったと思うけど……」
「へっ、どうだかな」
「仮にそうだったとしても、私が助けたいと思ったことに変わりはないわ。困っている人たちを救うために、私は勇者になったんだもの」
迷いのない返事に、オニキスの眉間に深い皺が寄った。
「テメェの力は、テメェのもんだ。見ず知らずの人間に、当然みてえに当てにされる筋合いはねえ」
「そうね、私の力は私のもの。だから、どう使うかは私の自由でしょう?」
「…………」
アメシスの言葉に、オニキスは押し黙ってしまった。
そうだ。アメシスの力は彼女のもの――その使い道に、自分が口を出すものではない。
それはわかっているのだが、なぜだか酷く苛ついた。
「心配してくれてるの?」
「してねえ」
「そう?」
「ニヤニヤすんな。ぶっ殺すぞ」
アメシスは小さく笑いながら、再び前を向いた。
オニキスはますます機嫌を悪くしたものの、それ以上は何も言わず、彼女の隣を歩き始める。
しばらくのあいだ、二人の足音だけが森の中に響いていた。
枝葉を揺らしていた風が、いつの間にか止んでいる。
森へ入ったばかりの頃には聞こえていた鳥の声も、虫の羽音も、いまはほとんど聞こえなかった。
「それにしても……」
アメシスが足を止めた。
「さっきから、妙だと思わない?」
「やっと気づいたか」
オニキスは呆れたように鼻を鳴らす。
「静かすぎるわね。村の近くへ出てくるほど森の獣が荒れているって聞いていたのに」
「大人しくしてるわけじゃねえ。何かに怯えて、息を殺してやがる」
アメシスは周囲を見回した。
茂みの奥に、何かが潜んでいるような気配はある。だが、こちらの様子を窺っているだけで、姿を現そうとはしない。
柔らかな土の上には獣の足跡がいくつも残っていたが、そのどれもが途中で向きを変え、二人の進む先を避けるように散っていた。
「本当に何かを怖がっているみたいね」
「これだろ」
オニキスが、近くの大木を顎で示した。
太い幹に、何本もの爪痕が刻まれている。
アメシスの背丈を越える高さから斜め下へ走るそれは、樹皮を剥いだだけではない。幹そのものを深く抉り、四本の太い溝を残していた。
アメシスは傷へ近づき、慎重に指先を寄せた。
「古い傷だけじゃない。これは、まだ新しいわ」
抉られた箇所から滲んだ樹液は、まだ乾ききっていない。
周囲を見れば、森の奥にある木々ほど、同じ爪痕が多く刻まれていた。
「いっちょ前に縄張りを主張してるんだろうな」
「これをつけたのが、村の人たちが言っていた魔物……」
「かもしれねえな」
二人は再び歩き始めた。
木々の根元には、少しずつ灰色の岩肌が覗き始めている。進むにつれて地面の起伏は激しくなり、やがて人の背丈ほどもある大岩が、木々のあいだに点在するようになった。
湿った土には、小動物のものとは明らかに違う、大きな足跡が残されている。
その足跡も木々に刻まれた爪痕も、岩場の奥へ続いていた。
しばらく奥に進んだ先で――不意に、低い音が響いた。
それは獣の唸り声にも、遠くから響く地鳴りにも聞こえる。
アメシスは即座に足を止め、背負っていたグレイブの柄へ手を伸ばした。
「オニキスくん、私の後ろへ」
「俺様に指図すんな」
再び、唸り声が響く。
先ほどよりも近い。
足元の小石が微かに震え、大岩の表面から乾いた苔が剥がれ落ちた。
木々の奥で、太い枝が折れた。
暗い茂みの向こうから、黒褐色の巨体がゆっくりと姿を現す。
それは熊のような魔獣だった。
四足で立っていながら、その肩はアメシスの胸元よりも高い。額から肩、背にかけて盛り上がった皮膚は、幾重にも重ねた鎧板のように硬く変質していた。
魔獣が一歩踏み出す。
肩の硬質な皮膚が傍らの大岩を擦り、石の表面を音高く削った。それでも、魔獣の身体には傷一つついていない。
赤く濁った目が、二人を捉えた。
アメシスはグレイブを引き抜き、地面を踏み締める。
その隣で、オニキスが巨体を見上げた。
「鎧甲熊じゃねえか」
鋭い牙を剥き出しにした魔獣を前にしても、オニキスの顔に恐れはない。
むしろ、つまらなそうに鼻を鳴らし、一歩前に踏み出したのだった。




