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第10話〜俺様を信じろ

 鎧甲熊の爪が、唸りを上げて振り下ろされた。


 アメシスは半歩だけ横へずれ、紙一重でそれを躱す。

 爪が地面に食い込んだ瞬間、両手で握ったグレイブを下から跳ね上げた。


 刃が鎧甲熊の脇腹を捉える。


 先ほどよりも深く、重い一撃だった。

 それでも刃は硬い皮膚に阻まれ、表面を滑るように弾かれた。


「この……っ!」


 アメシスは返す刃で前脚を狙ったが、鎧甲熊は巨体に似合わぬ素早さで身を翻した。その勢いのまま硬い肩がグレイブの柄に激突し、アメシスの身体が大きくよろめく。


 そこへ太く鋭い牙が迫った。


 咄嗟に水の精霊が横合いから水を浴びせ、鎧甲熊の狙いを僅かに逸らす。

 アメシスはその隙に地面を転がり、牙の下から逃れた。だが、立ち上がるより早く、鎧甲熊が前脚を振り上げた。


 風の精霊が精一杯起こした風に背中を押され、立ち上がりかけていたアメシスの身体が前へ傾く。アメシスは咄嗟に身を丸め、その勢いのまま肩から地面へ転がった。


 直後、背後に爪が叩きつけられ、砕けた石が外套を打った。


「ありがとう、ラァラ!」


 アメシスは立ち上がりざまに身を翻し、鎧甲熊の顎下へ刃を突き込んだ。


 手応えはあった。

 だが、分厚い毛皮と皮膚を僅かに裂いただけで、致命傷にはほど遠い。


 血を流したことで、鎧甲熊の怒りはさらに増したらしい。

 赤く濁った目が見開かれ、口元から泡を飛ばしながら吼えた。


 その様子を、大岩の上からオニキスが見つめていた。


「……チッ」


 アメシスの技量が足りないわけではない。


 鎧甲熊の爪や牙を躱しながら、確実に刃を当てている。両手でグレイブを扱えるようになってからは、危ういながらも動きに余裕が戻っていた。


 だが、いくら刃を当てても、鎧甲熊の硬い皮膚を深く貫けない。

 本来なら距離を取り、精霊術で動きを封じてから仕留めればいい。ところが、鎧甲熊はアメシスがフルートに持ち替える暇を与えず、執拗に肉薄し続けている。


 あのままでは、先にアメシスの体力が尽きる。


 オニキスは鎧甲熊の動きを追いながら、目を細めた。


 額から肩、背にかけて連なる鎧板。

 首と脇腹を覆う獣毛も、その下の皮膚も、並の熊とは比べものにならないほど硬い。

 対して、鎧板に守られていない腹側は、獣毛も皮膚も比較的柔らかい。


 狙うのならば正面――胸の奥にある心臓。


 だが、鎧甲熊は四足で低く構えている。

 正面から刃を向けても、先に硬い額か肩へ当たり、心臓までは届かない。


 オニキスは舌打ちし、さらに目を凝らした。


 鎧甲熊が姿を現したときから、その赤く濁った目と理性を失ったような暴れ方に、先日の大鹿と同じものを感じていた。


 その推測を確かめるように、魔力の気配を探る。


 やがて、鎧甲熊の体内で澱んだ黒紫の魔力が脈打っているのを捉えた。

 魔力は血の流れに混じるように全身へ広がっている。その流れを辿った先――胸の奥、心臓の近くに、魔晶石の欠片が留まっていた。


 大鹿の角に仕込まれていたものと、同じだ。


「やっぱり、そういうことかよ」


 オニキスの口元が、僅かに歪んだ。


 欠片は鎧甲熊の心臓付近にある。

 そこまで刃を通し、そのまま背中側へ押し抜けばいい。


 問題は、アメシスの腕力だけでは、刃を心臓まで届かせられないことだった。


 鎧甲熊の巨体がアメシスへ迫る。

 振り下ろされた爪をグレイブの柄で受け止めたものの、衝撃に押され、彼女の膝が地面についた。


「アメシス!」


 岩場にオニキスの怒鳴り声が響いた。


「こっちへ走れ!」


 アメシスは鎧甲熊の前脚を押し返し、立ち上がる勢いのまま地面を蹴った。

 オニキスのいる大岩へ向かって駆け出すと、鎧甲熊も咆哮を上げてその背中を追う。


 鎧甲熊は瞬く間にアメシスとの距離を詰めていく。だが、追いつく寸前、三人の精霊がその顔の周囲へ飛び込んだ。

 緑、青、紫の光が目元や鼻先を掠め、視界を遮るように目まぐるしく飛び交う。


 鎧甲熊は苛立たしげに頭を振り、精霊たちを追い払おうと前脚を振るった。

 アメシスを追う足が僅かに鈍った隙に、彼女は大岩まで駆け抜けた。


「岩の前だ! 石突を岩に当てろ!」


「石突を?」


「早くしやがれ!」


 アメシスはオニキスのいる大岩の前で足を止め、言われたとおりグレイブの石突を岩肌に押し当てた。


「刃をあいつへ向けろ。斜め上だ!」


 グレイブの刃が持ち上がり、こちらへ迫る鎧甲熊の胸元へ向けられる。


 大岩の上から飛び降りたオニキスは、アメシスの前へ入り込んだ。

 短い両腕を伸ばし、彼女が握るグレイブの柄を掴む。


「オニキスくん、危ないから!」


「黙って支えろ。もう少し下だ」


「このくらい?」


「違え。こうだ!」


 オニキスが柄を僅かに押し下げ、刃先を右へずらした。


 黒い目が、鎧甲熊の胸とグレイブの刃先を何度も往復する。

 突進の速さ。巨体の重さ。踏み切る位置。飛び込んでくる角度。その胸の奥で脈打つ心臓と、さらに奥にある魔晶石。


 すべてを見定め、最後に刃先をほんの僅かだけ持ち上げた。


「ここだ。動かすな」


「何をするつもり?」


「あいつをここに飛び込ませる」


 その間に、鎧甲熊の咆哮が上がった。


 巨体は苛立ちも露わに前脚を振り回し、纏わりつく精霊たちを追い払う。緑、青、紫の光が、爪を躱して四方へ散った。

 邪魔者を退けた鎧甲熊は再び地面を蹴り、岩混じりの地面を四肢で激しく打ちながら、一直線に二人へ迫ってくる。


「そんなこと、どうやって――」


「俺が合図したら、柄から手を離して左へ跳べ。俺も連れてけ」


「でも、それじゃグレイブが――」


「岩が支える。いいから俺様を信じろ!」


 アメシスは一瞬だけ目を見開き、すぐに前を向いて表情を引き締めた。


「わかった」


「返事だけは素直じゃねえか」


「オニキスくんが、信じろって言ったんでしょう?」


「……チッ」


 短く言葉を交わすあいだにも、鎧甲熊は勢いを増しながら迫っていた。


 オニキスは柄を握り締めたまま、意識を自分の内側へ向けた。


 大鹿の角に仕込まれていた魔晶石の欠片から得た、僅かばかりの魔力。

 本来の自分が持つ力とは比べるべくもない。あまりにも微々たるもので、まともな魔法を一度使えば、それだけで消え失せてしまう。


 だが、必要なのは鎧甲熊を止める力ではなかった。吹き飛ばす必要も、押さえ込む必要もない。


 飛び込むための足場を、ほんの一瞬作ればいい。


 目の前では、鎧甲熊の四肢が岩混じりの地面を激しく打ち、二人との距離をみるみる縮めていく。


 オニキスの黒髪が、滲み出した魔力に微かに揺れた。

 小さな翼が外套の内側で強張る。

 黒い瞳が赤みを帯びて光った刹那――魔力が足元から地面へ流れ込んだ。


 鎧甲熊の進路上で、湿った土が急激に盛り上がる。

 地中に埋もれていた岩が押し上げられ、斜めに傾いた足場を作り出した。


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