第23話〜分からせてやるよ
――やはり、この女は忘れていたのだ。
グレイブの切っ先越しに、警戒を宿した紫の瞳がこちらを見据えている。
そこから固く引き結ばれた唇へ、オニキスはゆっくりと視線を下ろした。
さらに目をやれば、アメシスはいつでも動けるよう腰を落とし、グレイブの長い柄を両手で握り締めている。
先ほどまで、ゴブルを殴る自分を「やめなさい」と、まるで子供のように叱っていた女と同じとは思えない顔つきだった。
その変わりように、オニキスは愉しげに口角を吊り上げた。
「ようやく思い出したか」
太く張りのあるハイバリトンの声が、グレイブの切っ先を越えてアメシスの耳に届いた。
幼い喉から響いていた澄んだボーイソプラノとは、似ても似つかない。だが、相手を見下す尊大な調子だけは、少年の姿でいた頃と何ひとつ変わらなかった。
「……なんの話?」
「俺様が誰なのか、だ」
オニキスが喉の奥で笑うと、アメシスの眉根がわずかに寄った。
「忘れてなんかいないわ。あなたが罪人オニキスだってことは、最初から分かってる」
「最初から、ねぇ……?」
ならば、幼い姿の自分を平然と抱き上げ、夜になれば胸元へ抱き込んだまま眠っていたのは何だったのか。
殺すと凄んでも聞き流し、触るなと怒鳴っても意に介さず、当然のように世話を焼く。あまりにも遠慮のない扱いに、本当に自分が何者なのか忘れているのではないか――何度そう疑ったか分からない。
その疑いへの答えが、いま目の前にあった。
罪人オニキスに向けていたあの眼差しを、アメシスが自分に向けている。
それだけで、抱いていた疑いは確信へと変わり、オニキスの笑みはさらに深まった。
そのまま一歩踏み出すと、アメシスの構えるグレイブの鋭い刃先が、オニキスの胸元を追った。
「来ないで」
制止を無視し、さらに距離を詰める。
「聞こえなかったの? そこで止まりなさい!」
「うるせえな。俺様に指図するな」
ようやく返ってきたオニキスらしい答えに、アメシスの表情がいっそう険しくなった。
なおも歩み寄るオニキスから子供たちを隠すように、アメシスが僅かに立ち位置を変えた。
その動きに、オニキスの笑みが薄れる。
「退け」
「嫌よ」
拒絶とともに、グレイブの切っ先がオニキスの胸元へ据え直された。
オニキスは刃先へ目を落とし、その向こうに立つアメシスへすぐに視線を戻した。
罪人オニキス――それに敵わないことは、アメシス自身、わかっているだろう。
かつては、ダレルたち勇者一行の四人が揃っていてさえ、オニキスにまともな一撃を届かせることすらできなかった。
その力の差を身をもって知るアメシスが、いまはたった一人でオニキスの前に立ちはだかり、一歩も退こうとしない。
――それが、酷く愉快だった。
オニキスが再び一歩を踏み出すと、アメシスの視線がさらに鋭さを増す。
「止まって!」
行く手を塞ぐように、グレイブの切っ先が僅かに動いた。
だが、オニキスは構わず間合いへ踏み込み、伸ばした手で刃元に近い柄を掴んだ。
「……っ!」
アメシスは咄嗟に引き戻そうとしたが、グレイブはびくともしなかった。
両腕で引くアメシスに対し、オニキスは片手で柄を掴んだまま、力む様子すらない。
「放して!」
「誰に向かって命令してやがる」
オニキスが柄を引くと、アメシスの身体が大きく前へ傾いた。
それでも彼女は手を離さず、足を踏ん張り、両腕に力を込め、グレイブを引き戻そうとする。
だが、アメシスがどれほど抗おうと、オニキスの腕は僅かにも揺らがなかった。
オニキスが手首を返すように柄を捻ると、その力に耐えきれず、アメシスの握りが崩れる。
息を呑む音が耳に届いたが、オニキスは構わず、奪い取ったグレイブを片手で軽々と持ち上げ、そのまま広間の端へ無造作に放り投げていた。
刃が石床を打つ鈍い音が響き、長い柄が床を滑っていく。
一瞬、アメシスの視線がその行方を追った。
だが、取り戻そうとはせず、意を決したようにオニキスへ向き直る。
崩れていた体勢を立て直すと、丸腰のまま両腕を広げ、自らの身体で六人を隠すように再び立ちはだかった。
「みんな、私が合図したら逃げて」
「勇者様……?」
「大丈夫。私がここで止めるから」
ニィナたちへ向けた声は穏やかだったが、オニキスを見据える顔から強張りは消えていなかった。
アメシスは顎を引き、首に力を込めると、僅かに腰を落とす。
その動きを見れば、彼女が何を考えているかなど、オニキスには容易に分かった。
次に来るのは、拳か蹴りだと思っている。
その攻撃を一身に引き受け、隙をついて子供たちだけでも逃がすつもりなのだ。
傷つくのは自分一人でいいと、またそんなことを考えている。
オニキスの腹の底から、苛立ちが込み上げた。
その一方で、逃げるどころか、オニキスをまっすぐ見返してくる紫の瞳から目を離せなかった。
怖がっている。
勝てないことも分かっている。
それでも退かず、守るものを背にして立つ。その姿に、収まりきらない昂りがさらに煽られ、身体の芯がぞくりと震えた。
気に食わない。
そのくせ、どうしようもなく気に入った。
オニキスはアメシスの目前まで歩み寄ると、片腕を持ち上げた。
その途端、殴られると思ったのだろう。アメシスの全身に力がこもった。
だが――持ち上げた腕が振るわれることはなかった。
そのまま逞しい片腕を細い腰へ回し、踏ん張っていた身体を一息に引き寄せたのだ。
「え――」
体勢を崩したアメシスは、その勢いのままオニキスの胸板へまともにぶつかった。
「な、なに……」
逃れようと身を捩っても、腰を抱く腕は僅かにも緩まない。
混乱したまま顔を上げかけたアメシスの頬へ、オニキスの手が伸びた。
大きな掌が片側の頬を覆い、長い指が反対側の顎まで回る。
頬から顎にかけての輪郭を丸ごと鷲掴みにされ、抗う間もなく、アメシスの顔が強引に持ち上げられた。
赤く染まった瞳を細め、オニキスはアメシスを見下ろしていた。
その口元には、不敵な笑みが浮かんでいる。
「今まで随分と好き勝手してくれやがったな」
すぐ頭上から、低い声が重く降ってくる。
「す、好き勝手って……?」
「散々俺様をガキ扱いしやがっただろうが」
「だって、あれはオニキスくんが自分でできなかったから――」
「テメェの言い訳なんざ聞いてねえ」
アメシスが僅かに顔を背けようとすると、オニキスはそれすら許さず、頬を掴む指にさらに力を込めた。
幼い姿では、いつもアメシスに抱かれる側だった。
あの身体では、彼女を腕の中へ引き寄せることも、大きな手で触れることもできなかった。
だが、いまは違う。
腕の中には、アメシスの身体がある。
そこから見上げてくる紫の瞳には、まだ戸惑いしか浮かんでいない。
これから何をされるのか、まるで分かっていない顔だった。
その戸惑いを眺めながら、オニキスは愉しげに声を落とした。
「どっちの立場が上か、分からせてやるよ」
低く響く声に、アメシスは目を見開いた。
すぐ目の前で、オニキスが笑っている。
それを見た瞬間、アメシスの身体がいっそう強張った。
かつて罪人オニキスと戦ったときにも、同じ笑みを見たことがあった。
相手を叩き潰すことを愉しんでいるときの、悪意に満ちた笑みだ。
だが、腰に回された腕からは逃れられず、頬から顎までを掴む手も振りほどけない。次に何が来るのかまでは読めないが、これほど近くては避けようもない。
そう考えた途端、次の衝撃に備えて全身に力を込めた。
そんなアメシスの様子に、オニキスはふっと鼻を鳴らした。
「……大人しくしてろ」
オニキスはアメシスの紫の瞳を覗き込みながら、ゆっくりと顔を寄せていく。
間近に迫る赤い瞳から、アメシスは目を逸らすことすらできなかった。




