第22話〜そこで止まって
「オニキスくん、もうやめなさい! 子供たちの前よ!」
アメシスの制止の声が、殴打の音だけが響いていた広間に落ちた。
その声に応えたかのように、背を向けていたオニキスの動きがぴたりと止まる。
「ああ?」
不機嫌を宿す低い声とともに、オニキスは左拳を引いた姿勢のまま、ゆっくりとアメシスへ顔を向けた。
鮮烈な赤に染まった双眸には、ゴブルを殴っていたときの昂りが、いまだ色濃く残っている。
「それ以上はもう必要ないでしょう。やめなさい」
それ以上拳を振るわないオニキスを見て、言葉が届いたのだと、アメシスが安堵しかけたのも束の間だった。
オニキスはゴブルの胸倉を掴んだまま、ゆらりと立ち上がった。
「ぐ、ぐえっ……!」
引き上げられたゴブルの、辛うじて床についていた爪先が、ついに石床から離れていく。
オニキスの屈めていた巨体が伸びきり、アメシスは思わず息を呑んだ。
アメシスがこれまで見下ろしていた、小さな魔族の少年の姿は、今やどこにもない。
ひときわ長身のオニキスが、今度はアメシスを見下ろし――その赤い瞳が僅かに細められた。
次の瞬間、オニキスは、もはや眼中にないとばかりにゴブルを片手で無造作に放り投げていた。
「ぬおおおおお――ごぶぅっ!」
断末魔のような悲鳴をあげながら、ゴブルの小柄な身体が壇上へ飛び、玉座の背凭れへ激しく叩きつけられる。
玉座が大きく軋む音を立て、ゴブルは潰れた呻き声を漏らしながら、座面からずるずると滑り落ちていった。
だが、オニキスは振り返ろうともしなかった。すでにその興味は、アメシスだけに移っていたのだ。
オニキスが足を踏み出し、アメシスとの距離を詰めてくる。
アメシスは咄嗟に身構えたが、視界の端に揺らぎを捉え、壇上の傍らへ目を向けた。
子供たちを守るため、水の精霊が広げた水の膜が、不安定に波打っている。
フルートの演奏をやめたことで、それを保つ力も弱まり始めたのだろう。
それでも水の精霊は、六人の前で両腕を広げ、懸命に膜を支え続けていた。
いつの間にか、土の精霊と風の精霊もその傍らへ退いていた。
二人とも水の精霊へ身を寄せ、怯えた様子でオニキスを見つめている。
幼い姿のオニキスには、揶揄うほど慣れていたはずだ。
だが、いま広間を満たしているのは、それまでとは比べものにならないほど膨大で禍々しい魔力だった。
精霊たちは本能的に、その力を恐れている。
アメシスはフルートを腰へ戻すと、オニキスから距離を取って大きく回り込み、子供たちのもとへ駆け出した。
オニキスは、回り込む彼女の行く手を阻もうとはしなかった。
ただ、赤い目だけがその動きを追ってくる。
その視線を背に受けながら、アメシスの脳裏には、たったいま目にした光景が焼きついていた。
小柄なゴブルの身体を物のように玉座へ放り投げた、あまりにも無造作な動き。
かつて、よく似た光景を、アメシスは目にしている。
魔王アダマントに刃向かい、その角の片方をへし折った古代魔族。
その罪で千年近く幽閉されたのち、勇者一行の全滅を条件に仮釈放され、アメシスたちの前へ差し向けられた罪人――オニキス。
魔王に匹敵するほどの力を持ち、罪人としてその大部分を封じられていたにもかかわらず、ダレルたち四人が揃っていても、まるで歯が立たない相手だった。
強大な魔法を惜しみなく振るい、それだけでは飽き足らず、自ら肉薄して相手を嬲ることを好んだ。
アメシス自身も、オニキスの蹴りをまともに受けている。
聖女であるフィーナは頬を殴られ、まだ十三歳の少年騎士であるヘリオンも、手加減されることはなかった。
前衛に立っていたヘリオンは執拗に狙われ、最後には足首を掴まれ、中衛にいたアメシスを狙って投げつけられた。
オニキスが女子供にも容赦しないことを、アメシスは身をもって知っている。――知っていたはずだった。
幼い姿となったオニキスが、かつて自分たちの前へ立ちはだかった敵なことも、分かっていた。
それなのに、一緒に旅を続け、世話を焼くことが当たり前になるうちに、その実感だけが薄れていた。
口が悪く、態度が大きく、放っておけばすぐに危ないことをする困った男の子。
いつの間にか、アメシスの中にあるオニキスの姿は、そんな少年へと塗り替えられていたのだ。
壇上の傍らへ辿り着いたアメシスは、六人の子供たちの前へ滑り込むように立った。
背負っていたグレイブを手にし、すぐさまオニキスのほうへ振り返る。
こちらへ歩み寄ってくる彼に向けて切っ先を構えると、その足がぴたりと止まった。
「そこで止まって、オニキスくん」
アメシスの制止を求める声が広間に響いた。
だが、オニキスは答えなかった。
子供たちを背に庇い、武器を向けるアメシスを、じっと見つめている。
アメシスは、オニキスを敵だと決めつけたわけではない。
だが、水の精霊の水の膜は弱まり、精霊たちは彼の魔力に怯えている。その庇護を失いかけた六人の子供たちを、無防備なままにはしておけなかった。
守るべき者がいれば、考えるより先にその前へ出てしまう。
それが、勇者として戦ってきた彼女の身体に染みついていた。
グレイブの切っ先を隔てて、紫と赤の視線がぶつかる。
オニキスは何も言わず、子供たちを背に庇うアメシスから、目を離そうとしなかった。




