第21話〜ハハハハハッ!
「は――ハハハハハッ!」
視界を覆い尽くす黒紫の煙の中から、突如として低い笑い声が響いた。
「戻った! 戻ったぞッ!!」
歓喜に満ちた声とともに、煙の中で巨大な何かが開く。
次の瞬間――
激しい羽ばたきが広間の空気を打ちつけた。
渦巻いていた黒紫の魔力が弾け、舞い上がった砂埃とともに四方へ吹き飛ばされていく。
アメシスは掲げた腕の陰に顔を伏せ、さらに強く吹きつける風をやり過ごした。
風が収まり、黒紫の煙が左右へ押し流されていく。
その中心には、先ほどまでの小さな少年に代わり、ひときわ長身の影が立っていた。
短く乱れた黒髪に、鮮烈な赤に染まる双眸。
一対の翼を象った艶やかな角、左右へ張り出した長い耳。
筋肉の引き締まった身体を包むのは、胸元を大きく開いた黒い装束。肩や腕には翼と棘を思わせる硬質な装具が重なり、腰から垂れる長い裾が、禍々しく風に揺れている。
その背後には、艶を帯びた黒い骨組みと、暗い赤の皮膜を持つ巨大な翼が広がっていた。
膨大な魔力を全身から溢れさせる――それが、オニキスという魔族の本来の姿だった。
アメシスは掲げていた腕を下ろすことも忘れ、煙の中心に立つオニキスを見つめた。
「オニキス……くん……?」
それが誰なのかは、問うまでもなかった。
幼い姿になる前のオニキスを、アメシスは知っている。
それでも、彼と旅を続け、世話を焼くことが当たり前になるうちに、目の前の魔族こそが本来のオニキスなのだという実感は、いつしか薄れていた。
知っていたはずの事実に、感覚だけが追いつかない。
アメシスは紫色の瞳を見開いたまま、その場から動くことができなかった。
一瞬の静寂を破るように、広間のあちこちから獣たちの低い呻き声が上がった。
赤く濁っていた目から、黒紫の光が完全に失われていく。猪は戸惑うように頭を振り、鹿も足を止めて、何度か瞬きを繰り返し始めたのだ。
正気を取り戻しつつある獣たちは、ようやく自分たちがいる場所と、広間を満たす強大な魔力に気づいたらしい。
一頭が怯えた鳴き声を上げ、すぐさま身を翻した。
それを皮切りに、動物たちは我先に出入り口へ殺到する。
石床を打つ蹄や爪の音は瞬く間に遠ざかり、ほどなく広間から動物たちの姿は消えた。
壇上の傍らでは、六人の子供たちも水の精霊の張った水の膜に守られたまま、オニキスを見つめていた。
「な……何なのだ、その姿は……?」
床に尻をついたまま、ゴブルが震える声を漏らした。
目の前にいる魔族が、つい先ほどまで杖を奪い合っていた子供と同じ存在であることは理解できた。
そして、自分とは比べものにならないほどの力を持つ相手だということだけは、本能で察したようだった。
「貴様……いったい何者なのだ……?」
その問いに、オニキスは答えなかった。
いまのオニキスにとって、目の前で怯えるゴブルなど眼中にない。その意識はすべて、ようやく取り戻した己の身体へと向いていた。
オニキスは両手を持ち上げ、開いた掌へ視線を落とすと、感触を確かめるように長い指をゆっくりと握り込んだ。
原石から得た膨大な魔力が、いまは何の妨げもなく全身を巡っている。
幼い姿では飾り同然だった背中の翼も、いまは本来の力を取り戻し、己の意思に応じて自在に動いた。
「身体が動く。魔力も溢れてやがる……!」
赤い瞳を輝かせ、オニキスは喉の奥で低く笑った。
「ようやくだ。ようやく俺様の身体に戻ったぞ!」
ひとしきり復活の喜びを噛み締めたところで、オニキスの興味が、床にへたり込んでいるゴブルへと戻った。
昂る赤い瞳が、ゆっくりと足元のゴブルに向けられた。
その視線を受け、ゴブルの身体がびくりと震えた。
「な、何だ。余は何も――」
ゴブルは両手を床について後ずさった。
だが、オニキスは獲物を見つけたように口端を吊り上げ、悠然とゴブルへ迫った。
長い脚であっという間に距離を詰めると、後ずさるゴブルの目の前で両脚を開き、町の路地裏にたむろする素行の悪い若者――ヤンキーと呼ばれる輩さながらに、深く腰を落とした。
ゴブルにとって、先ほどまで見上げるしかなかった赤い目が、同じ高さまで下りてくる。
間近から注がれる赤い視線に怯みながらも、ゴブルは皇帝の威厳を取り繕うように、僅かに胸を張った。
「おお、おお……。ようやく我が魔獣帝国軍の大元帥として、余に忠誠を――」
「まだ言ってやがるのか」
オニキスの左手が伸び、ゴブルの胸倉を掴んだ。
「ぐえっ!」
そのままぐいと目の前へ引き寄せ、胸倉を掴んだ手に力を込める。
鼻先が触れそうなほどの至近距離で、オニキスはゴブルを睨みつけた。
「誰がテメェの手下になるっつった?」
「ま、待て! 話せば分か――ぶへっ!」
言い終えるより早く、オニキスの右拳がゴブルの頬へ叩き込まれた。
鈍い音が広間に響き、ゴブルの顔が横へ弾かれる。胸倉を掴まれているため倒れることも許されず、すぐさまオニキスの正面へ引き戻された。
「それに、俺様をガキ扱いしやがったな」
「見た目はガキだったであろ――ぶふっ!」
再び右拳が、先ほどと同じ頬へめり込む。
「ひ、卑怯だぞ! 離してから戦――へぶっ!」
「逃げる気満々のヤツが何言ってやがる」
さらに一発。
片側だけが腫れ始めたゴブルの顔を眺め、オニキスはふと眉をひそめた。
「……左右非対称だな」
「だ、誰のせいだと――」
「バランス悪くて俺様の美意識が許さねえんだよ」
オニキスは不意に、ゴブルの胸倉を掴んでいた手を左から右へ持ち替えた。
「左もいっとくか」
「待て! なぜそうな――ぶほっ!」
今度は固く握られた左手が、反対側の頬へ叩き込まれた。
オニキスならば、ゴブルの息の根など一撃で止められるはずだ。
だが、オニキスは急所を外し、骨を砕かない程度に力を抑えていた。殺さないための慈悲ではない。せっかくの鬱憤晴らしを、一撃で終わらせるつもりがないのだろう。
オニキスはゴブルと目線を合わせたまま、一方的な制裁を続けている。
アメシスはしばらく呆然とその光景を眺めていたが、再び響いた鈍い音に、ようやく我に返った。
水の精霊が広げた水の膜の内側では、子供たちも二人の様子を唖然と見つめ続けている。
アメシスは慌てて二人へ向かって足を踏み出したが、オニキスは構わず、再び拳を振り上げた。
「オニキスくん、もうやめなさい! 子供たちの前よ!」
アメシスの制止の声に、放たれかけていた拳が、ぴたりと止まった。




