第2話〜紫水晶の精霊使いと小さな黒瑪瑙の魔族②
「……こいつは」
地面に、小さな石片が落ちていた。
先ほど枝角が土へぶつかった際に、弾け飛んだものらしい。黒紫色の欠片は小指の爪ほどの大きさしかなかったが、その内側では禍々しい力が脈打っているのを感じた。
オニキスの視線を追い、アメシスもその傍へ屈み込んだ。
「この子の角に入っていたのかしら」
枝角の根元には、小さな穴が残っている。周囲の毛には血がこびりつき、皮膚も黒く変色していた。
「もしかして、これが暴れていた原因……?」
アメシスが拾い上げようと手を伸ばす。
「――触るなっ!」
鋭い声に、指先が止まった。
振り返ると、オニキスが黒紫色の欠片を凝視していた。
その顔つきからは、先ほどまでの不機嫌さは消えている。
「なに? 知ってるの?」
「魔晶石の欠片だ。人間が素手で触るもんじゃねえ」
「魔晶石……」
アメシスは伸ばしていた手を引いた。
オニキスが彼女と入れ替わるように、その場へしゃがみ込む。大鹿の角に残された穴と、地面の欠片を見比べ、黒い目を細めた。
「自然に入り込んだもんじゃねえな。誰かがこいつの角へ埋め込みやがった」
「何のために?」
「この獣を狂わせるためだろ」
「これだけで、そんなことができるの?」
「魔晶石は、魔界の澱んだ魔力を溜め込む。使い方次第じゃ、簡単な命令を流し込むこともできる」
オニキスはそう告げたあと、森の奥へ顔を向けた。
長い耳が、僅かに動く。
「どうしたの?」
「……何でもねえ」
何かを聞き取ろうとするように暫く目を細めていたが、すぐ欠片へ視線を戻す。
魔界の魔力を蓄積した石の欠片。
「この欠片、素手で触ったらどうなるの?」
「手足が痺れる。熱が出て、頭痛と吐き気、眩暈……魔力に弱い奴なら、そのまま意識を失うこともある」
「ふぅん……風邪の症状みたいね」
「一緒にすんな。魔界の澱んだ魔力に身体を侵されるんだ。長く触れてりゃ、頭までやられるぞ」
「頭まで?」
「自分が何をしてるのか分からなくなったり、急に暴れ出したりする。さっきの獣みてえにな」
アメシスは改めて、大鹿の角に残された穴を見た。
小指の爪ほどの小さな欠片一つで、あれほど大きな獣を狂わせる。
その危険性を知れば、このまま森へ放置するわけにもいかなかった。
「触れないならどうすればいい?」
「知るか」
「リーフィの土で包んで運べるかしら。でも、その中から魔力が漏れたら――」
アメシスが土の精霊へ目を向けた、その横で。
オニキスは無造作に手を伸ばし、魔晶石の欠片を躊躇なく拾い上げた。
「オニキスくん!」
止める間もなかった。
オニキスは黒紫色の光を放つ欠片を一瞥し――そのまま口へ放り込んだのだ。
直後、硬いものを噛み砕く音が森に響いた。
「…………」
アメシスは言葉を失った。
傍にいた三人の精霊も、揃って動きを止めている。
黒紫色の光が小さな体の喉元を通り、胸の奥へ吸い込まれる。
一瞬だけ、オニキスの黒い瞳へ赤い光が差したような気がした。
「……何してるの?」
「見りゃ分かるだろ」
「分からないわよ! どうして食べたの!?」
「このまま置いとけねえんだろ。俺が喰えば済む話だ」
「危ないものを何でも口に入れちゃ駄目でしょう!」
「ガキ扱いすんな!」
オニキスは苛立たしげに口元を拭った。
「触ったら駄目だって、自分で言ったのに」
「人間が触れたら、だ。俺をテメェらと一緒にすんな」
心配そうに自分を見るアメシスに、オニキスは鼻を鳴らした。
「そもそも、こんな欠片程度じゃ、腹の足しにもなりゃしねえ」
「腹の足し……?」
「何でもねえ」
それ以上説明するつもりはないらしく、オニキスは大鹿へ背を向けた。
アメシスはその横顔を見つめていたが、どう問い詰めればいいのか分からない。
「……お腹、痛くなっても知らないからね」
「ならねえよ!」
怒鳴り返したオニキスの声に、大鹿の耳がぴくりと動いた。
二人が同時にそちらを見る。
大鹿の長い睫毛が震え、閉じられていた目がゆっくりと開いた。
先ほどまで血走っていたその目からは、狂暴な光が消えている。
大鹿はぼんやりと宙を見つめ、自分がなぜ地面へ倒れているのか分からない様子で何度か瞬きを繰り返した。
「目が戻ってる……」
アメシスが安堵の息をつく。
大鹿はその声に反応し、ゆっくりと首を持ち上げた。
近くに立つアメシスを見つめ、その周囲を漂う三人の精霊へ目を移す。
怯えた様子はあるが、先ほどのように襲いかかろうとはしなかった。
「もう大丈夫よ。怖いものはないから」
アメシスが刺激しないよう穏やかに声を掛ける。
大鹿の彷徨う視線が、最後にオニキスへ向いた。
長く尖った耳。
艶やかな黒い角。
外套の背から覗く、小さな黒い翼。
微かながら漂う、異質な魔力の気配――
大鹿の目が、大きく見開かれた。
「……何見てやがる」
オニキスが忌々しげに低く唸る――と、大鹿は弾かれたように四肢を跳ね上げた。
「あっ」
アメシスが声を上げると同時に、大鹿は立ち上がるなり身を翻し、木々の奥へ向かって一目散に駆け出した。
太い後脚が、湿った地面を勢いよく蹴り上げ、土と枯れ葉が盛大に宙を舞う。
アメシスは咄嗟に腕で顔を庇い、三人の精霊は笑い声を上げながら上空へ逃れた。
跳ね上がった泥と枯れ葉が落ちきるより早く、大鹿は木々の向こうへ消えていた。
「……元気になったみたいね」
アメシスが苦笑しながら腕を下ろす。
彼女の外套には、枯れ葉が一枚ついているだけだった。
精霊たちも土を避け、何事もなかったように宙を漂っている。
ただ一人。
大鹿のすぐ傍にしゃがみ込んでいたオニキスだけが、頭から泥を被っていた。
黒髪には濡れた土が積もり、片方の角には枯れ葉と細い枝まで引っかかっている。黒い外套から小さな翼の先まで、見事なほど泥にまみれて汚れていた。
「…………」
オニキスは大鹿が逃げていった方角を、無言で睨みつけている。その頬がヒクヒクと動き、不機嫌なのは明らかだ。
そのオニキスの様子に、水の精霊が吹き出した。
それを合図に、風の精霊も土の精霊もケラケラと腹を抱えて笑い始める。
「笑った奴から殺す」
地の底から響くような声だった。
だが、頭に枝を載せた小さな姿では、いまひとつ迫力がない。
「……私は笑ってないわよ」
アメシスは口元を押さえながら、どうにか答えた。
「肩が震えてんだろうが」
「心配してるのよ。怪我はない?」
「ねえよ」
オニキスが機嫌悪く振り返る。
その拍子に、角へ引っかかっていた枯れ葉が一枚、ひらひらと地面へ落ちた。
アメシスはとうとう耐えきれずに吹き出した。
「テメェも殺す!」
「はいはい。分かったから、綺麗にしてあげるわ」
「触んな。自分でできる!」
「翼にも泥がついてるわよ」
「届く!」
小さな翼を動かそうとしたが、泥に濡れた外套に引っかかり、布の内側でもぞもぞと揺れただけだった。
精霊たちの笑い声が、さらに大きくなる。
アメシスはオニキスの前へしゃがみ、角に絡んだ枝へ手を伸ばした。
「じっとして。引っかかってるから」
「自分で取れる」
「見えてないでしょう?」
「取れるっつってんだろ!」
「暴れないの」
片手で額を押さえられ、オニキスは渋々動きを止めた。
枝を外し、髪についた泥と枯れ葉を払ってやりながら、アメシスは大鹿の消えた森の奥へ目を向ける。
「それにしても……誰が、あの子の角へ魔晶石を埋めたのかしら」
「さあな」
「ほかの動物にも、同じことをしていなければいいけど」
オニキスは答えなかった。
けれど、その長い耳が微かに動き、アメシスと同じ方角へ向けられている。
ほんの一瞬だけ聞こえた、何者かの声。
もう一度耳を澄ませても、いまは何も聞こえなかった。
それでも、あの欠片を大鹿の角へ埋めた者が、この森のどこかにいる。
オニキスはそう確信していた。
「……オニキスくん?」
「何でもねえ。それより、いつまで触ってやがる」
「まだ泥が落ちてないもの」
「もういい。離せ」
「はいはい」
「その返事やめろ!」
三人の精霊が楽しげに笑うなか、オニキスの怒鳴り声が森へ響いた。




