第1話〜紫水晶の精霊使いと小さな黒瑪瑙の魔族①
魔王が率いる魔族たちに支配された世界。
人々が魔族と魔物の脅威に怯え、僅かに残された町や村へ身を寄せ合って暮らすその世界に、魔王討伐を掲げて旅を続ける者たちがいた。
若き勇者ダレル。
彼と共に歩む聖女フィーナ。
金獅子の勇者ヘリオン。
三人の勇者は幾多の苦難と苦境を乗り越え、魔王アダマントの居城がある北の大地を目指していた。
時に町を襲う魔族を倒し、時に国を救い、希望を人々に与える。
その華々しい旅路から、少し離れた場所――
そこで同じく魔族を倒し、人々を救いながら北へ向かう、もう一人の勇者がいた。
紫水晶の勇者――精霊使いのアメシス。
そして彼女のあとを、何かと文句をつけながら歩く、小さな黒い少年が一人。
勇者と小さな少年――二人の旅は後に、人々のあいだでまことしやかに語られることになる。
これは、まだ誰も少年を勇者とは呼んでいなかった頃の物語である。
◇◇◇
木漏れ日に照らされた森の中に、澄んだフルートの音色が流れていた。
音が軽やかに木々の隙間を抜け、枝葉を揺らし、冷たい沢の流れへ溶けていく。
その旋律に重なるように、小さな少女たちの笑い声が楽しげに弾んだ。
緑の光を纏った風の精霊が宙を舞う。
その軌跡を追いかけるように、紫に輝く土の精霊が地を走り、青い光を曳く水の精霊が木々のあいだから躍り出た。
傍目には、精霊たちが森で無邪気に遊んでいるようにしか見えない。
だが、三つの光に囲まれた中央で、巨大な鹿が荒れ狂っていた。
並の鹿ではない。
大人の男の背丈を優に超える身体。頭から伸びた枝角は、森の若木ほどもある。
太い脚が地面を踏みつけるたび、湿った土と枯れ葉が大きく跳ね上がった。
風の精霊が、大鹿の枝角を掠めて飛び去った。怒り狂った大鹿が首を振り上げると、今度は水の精霊がその鼻先へ冷たい雫を浴びせ、土の精霊が蔓草を伸ばして脚を絡め取った。
大鹿はますます興奮し、蔓を引きちぎって地面を踏み鳴らし、角を振り回した。周囲の枝を次々と折り、灌木を薙ぎ払う音が大きく響いた。
その目は赤く血走り、口元には白い泡が浮かんでいる。明らかに正気ではなかった。
大鹿が狙いを定めた先に、一人の女性――“紫水晶の勇者”、アメシスが立っていた。
蜂蜜色の長い髪を一本の三つ編みに纏め、背には細身の身体に似合わない巨大なグレイブを負っている。
だが、いま彼女が手にしているのは、戦斧のような刃ではなく、細身のフルートだった。
大鹿が前脚で土を掻き、枝角が低く構えられる。
アメシスは紫の瞳でその動きを見据えたまま、フルートへ吹き込む息を強めた。
軽やかだった旋律が、鋭く跳ね上がる。
「リーフィ、足元を押さえて!」
紫の光を纏った土の精霊が地面へ両手を触れた。
大鹿の足元から土が盛り上がり、太い前脚へ絡みつく。大鹿は地面へ縫い止められかけたが、力任せに脚を引き上げ、固まった土を蹴り砕いた。
そのまま、正面のアメシスへ突進する。
地面を揺らす蹄音が、瞬く間に近づいた。
アメシスは旋律を途切れさせることなく、大鹿をぎりぎりまで引きつけた。紫の瞳に、鋭い角の先端が映り込んだ。
「ラァラ、右へ!」
緑の風の精霊が両腕を広げる。
木々のあいだを吹き抜けていた風が集まり、大鹿の横腹へ叩きつけられた。突進の軌道が逸れ、枝角がアメシスの外套を掠める。
彼女が身を翻した直後、大鹿は勢いのまま木の幹へ肩をぶつけた――が、それでも倒れない。
大鹿は怒りに任せて首を振り、再びアメシスへ向き直ろうとする。
「ティア、お願い!」
沢から巻き上げられた水が、青い精霊の周囲へ集まった。
膨れ上がった水塊が、大鹿の横腹へ打ち込まれる。巨体が押し流され、濡れた地面を滑った。
追い打ちをかけるように、土の精霊が砂礫を巻き上げる。風の精霊がそれを猛烈な風に巻き込み、大鹿の頭上から叩きつけた。
枝角が地面へぶつかる。何か硬いものが弾け飛び、軽い音を立てて土の上を跳ねた。
それが何かを確認する前に、大鹿の脚から力が抜け、その巨体は土の上へ横たわった。
フルートの旋律が止む。
森には沢の音と、枝葉から落ちる水滴の音だけが残った。
アメシスは暫く大鹿の様子を窺ってから、フルートを手放さずに慎重に近づいた。
大鹿の上下する腹へ手を当て、目立った傷がないことを確かめ――安堵の息を吐いた。
「気を失っているだけね」
周囲に集まってきた三人の精霊も、嬉しそうに声を上げた。
「三人とも、ありがとう。上手だったわ」
褒められた精霊たちは、アメシスの周囲を飛び回った。
風の精霊は得意げに胸を張り、水の精霊は照れたように笑っている。土の精霊は大鹿の傍らへ降り、乱れた土を小さな手で均していた。
アメシスはその様子を見てから、少し離れた木立へ顔を向けた。
「オニキスくん、出て来ていいよ」
返事はなかった。
「オニキスくん? もう終わったわよ?」
「……見りゃ分かる」
漸く太い木の陰から、不機嫌そうな声が返ってくる。
暫くして姿を現したのは、黒い外套を纏った小柄な少年だった。
年の頃は十歳ほど。乱れた黒髪のあいだから人間より長く尖った耳が覗き、頭部には蝙蝠の翼を象ったような一対の艶やかな黒い角がある。外套の背からは、小さな黒い翼が見えていた。
オニキスは倒れた大鹿を一瞥し、鼻を鳴らした。
「こんな獣一匹に、随分と手間取ったもんだな」
「殺さずに正気に戻そうとしたんだから、仕方ないでしょう」
「最初から俺にやらせりゃ早かった」
「前もそう言って怪我してたじゃない」
「あれは相手が卑怯だっただけだ」
「はいはい」
「その返事やめろ」
アメシスは聞き流し、フルートを腰の留め具へ戻した。
オニキスが不満そうに睨んでくるが、もう慣れたものだった。口では何度も「殺す」と脅してきたが、本当に襲いかかってきたことはない。
それどころか、アメシスが少しでも危険な位置へ立てば、自分の身体が弱っていることも忘れて前へ出ようとする。
今回も、木陰で待つよう言い聞かせるのに、随分と時間が掛かったほどだ。
オニキスは大鹿へ歩み寄ると、枝角の近くで足を止める。
枝角の傍らに落ちた何かを捉え、オニキスの黒い目が鋭く細められた。




