第16話〜そこまでは聞いてねえ
朝の光はまだ森の奥まで届かず、木々のあいだには薄い靄が漂っていた。
湿った土の上には、六人分の小さな足跡が途切れることなく残されている。
歩幅も足跡の大きさもばらばらだったが、どれも同じ方角へ向かい、脇道へ逸れた様子はない。木の根や岩を避けながら、初めから行き先を知っていたかのように森の奥へ続いていた。
アメシスは足跡の一つへ目を落とし、その周囲を注意深く見回した。
「争った跡はないわね。転んだり、何かに襲われたりした様子もないみたい」
「意識ごと操られてたんだ。余計なことを考えず、言われたとおり歩いていったんだろ」
「そうだとしても、こんな暗い森を子供たちだけで……」
アメシスは不安げに眉を寄せながらも、足を止めることなく先を急いだ。
その隣を歩くオニキスは、茂みの奥に潜むいくつもの獣の気配を探るように、黒い目を細めた。
枝葉の隙間からこちらを窺う目。
下草を踏み分け、二人のあとをついてくる足音。
その中には、先日の大鹿や鎧甲熊から感じたものと同じ、黒紫の魔力の気配も微かに混じっている。
だが、どの獣も一定の距離を保ったまま、それ以上近づいてくる様子もなかった。
「動物たち、襲ってこないわね」
「欠片持ちで殺気立ってるヤツはいるんだけどな」
さらに進むと、不意に前方の茂みが大きく揺れ、一頭の猪が獣道へ姿を現した。
太い牙を持つ猪は、赤く濁った目を二人へ向け、低く鼻を鳴らす。
アメシスが咄嗟にグレイブの柄へ手を伸ばす一方で、猪の体内から漂う魔力を感じ取ったオニキスは、にやりと口の端を吊り上げた。
「こいつも欠片持ちだな」
猪はしばらく二人を見つめていた。
ところが、アメシスの隣に立つオニキスへ目を向けると、襲いかかってくることなく、すっと踵を返した。下草を踏み分ける足音を残し、そのまま茂みの奥へ遠ざかっていく。
予想外の反応に、オニキスは拍子抜けしたように眉を上げた。
咄嗟にその背を追おうと一歩踏み出しかけたが、地面に残る六人分の足跡へ視線を落とすと、忌々しげに舌打ちして踏みとどまった。
「……いいの? 魔晶石の欠片、欲しいんでしょ?」
「チッ。放っとけ。いまはガキどもを追うのが先なんだろ」
アメシスは遠ざかっていく足音を聞きながら、猪の消えた茂みを見つめていた。
「それにしても、どうして襲ってこなかったのかしら。あれだけ殺気立っていたのに」
「あいつ自身に襲う気はあった。だが、何かに止められてるみてえだったな」
その言葉に、アメシスは何かに気づいたように隣のオニキスを見下ろした。
「もしかして、オニキスくんがいるから襲ってこないのかも?」
「あ?」
「子供たちを無傷で森の奥まで連れ去るために、獣たちには子供を襲わないよう命令しているんじゃないかしら。オニキスくんも子供だから、近くにいる私まで襲われないのかも」
オニキスは眉間に深い皺を刻み、隣に立つアメシスをゆっくりと見上げた。
「俺をガキの括りに入れてやがるのか……?」
「よかった。離れないでね」
「テメェ、俺を魔除け代わりにすんな!」
アメシスは小さく笑い、再び足元の痕跡へ意識を戻した。
六人分の足跡は、森の奥へ向かう細い獣道に沿って続いている。
朝靄の漂う木々のあいだを歩いているうちに、アメシスはどこか懐かしそうに目を細めた。
「そういえば、昔、ダーちゃんともこうやって森に入ったことがあったな」
オニキスの片眉が、ぴくりと動いた。
「……前々から思ってたんだが」
「なに?」
「何でテメェは、あのクソ勇者野郎を“ダーちゃん”なんて呼んでやがる」
「ダーちゃんはダーちゃんだから……」
「答えになってねえ。あいつはダレルだろうが」
アメシスは少し考えるように視線を上へ向けてから、ようやくオニキスが何を疑問に思っているのか理解したらしい。
「私とダーちゃんが幼馴染だからよ。故郷の町で小さい頃はずっと一緒だったの」
「幼馴染だと?」
「私の父が町長だったから、町の子たちとは大抵顔見知りだったけど、同い年のダーちゃんとは特に仲がよかったのよ。だから、小さい頃からずっと“ダーちゃん”って呼んでるの」
「ほぉん……」
オニキスは興味がなさそうに鼻を鳴らしたが、その顔には隠しきれない不機嫌さが浮かんでいた。
「ダーちゃんってば、今も私のことを“アーちゃん”って呼んでくれるのよ」
「そこまでは聞いてねえ!」
「そう?」
「くだらねえこと話してねえで、さっさと歩け!」
自分から尋ねたはずのオニキスが、なぜ急に機嫌を悪くしたのか、アメシスには分からなかった。
首を傾げながらも、アメシスは足跡を追って歩き続けた。
「それでね。私たちの町の近くにも、こういう森があったの」
「まだ話すのかよ」
「町の子たちのあいだで、その森にある古い屋敷に肝試しに行くのが流行っていてね。誰も住んでいない屋敷の入口まで行って、扉に印をつけて帰ってくるの」
「ガキだけでか?」
「そう。私とダーちゃんもこっそり行ったわ。帰ったあと、お父さんに見つかって、二人揃ってこっぴどく叱られたけど」
「テメェは本気で無茶ばっかしてやがったんだな」
「子供の頃の話よ?」
「いまと何が違うんだ」
アメシスは返す言葉に詰まり、誤魔化すように前へ向き直った。
それでも昔話をやめるつもりはないらしく、故郷の森にあった屋敷のことを懐かしそうに話し続けた。
その屋敷は壁の一部が崩れ、建物の周囲には蔦が生い茂っていたらしい。奥には一本の塔があり、木々の向こうへ突き出した先端は、森の中からでも見えていたという。
「それで、その塔を目印にして、屋敷まで歩いたの。森の中から、ちょうどあんなふうに古い塔が見えて――」
アメシスの言葉が途中で止まった。
「…………塔?」
紫の瞳が、木々の隙間へ向けられる。
いつの間にか周囲の地面は緩やかな上り坂となり、密集していた木々も僅かに途切れていた。
その向こう――朝靄に霞む森の奥で、古びた尖塔が木々の上へ突き出している。
灰色の石壁は蔦と苔に覆われ、尖った屋根の一部も崩れ落ちていた。
森に呑み込まれながらも、その塔だけは遠くからでも見えるほど高く聳えている。
オニキスも足を止め、アメシスの視線を追った。
「何だ、ありゃ」
「古い塔……いえ、下にも建物が続いているみたい。お城、かしら」
木々に遮られ、ここからでは全貌まで見渡せない。
だが、尖塔の下には石造りの壁らしきものが連なり、山肌の傾斜に沿って大きな建物が横たわっているのが辛うじて見えた。
アメシスは古城から足元へ視線を戻し、地面に残る足跡を確かめた。
六人分の小さな足跡は、古城らしき建物の見える方角へまっすぐ伸びていた。
「あそこに向かっているみたいね」
「村の連中、森の奥にあんなモンがあるなんざ、一言も言ってなかったぞ」
「これだけ高い塔なら、村からも見えていたはずよ。昔からあるものだから、今回のことと関係ないって思っていたのかもしれないわね」
「だとしても、先に話しとけってんだ」
「戻ったらちゃんと聞きましょう。いまは子供たちを追わないと」
アメシスは古城を見据え、グレイブの柄を握り直した。
三人の精霊もその周囲へ集まり、遠くに見える尖塔を警戒するように見つめている。
「行くわよ、オニキスくん」
「俺様に指図すんな」
二人は再び足跡を追い、朝靄の向こうに佇む古城を目指して、さらに森の奥へと進んでいった。




