第14話〜大人しく寝てなさい
――来い。
眠りの底へ、声が落ちてきた。
東の空が白み始めるには、まだ僅かに早い時刻だった。
家々の明かりは消え、冷えた夜気に包まれた村は、物音一つなく静まり返っている。
――森へ来い。
ニィナの瞼が、ゆっくりと開いた。
薄暗い室内の天井を見つめる幼い瞳に、目覚めたばかりの揺らぎはない。
呼び声に驚くことも、その正体を探ろうとすることもなく、ニィナは掛け毛布を押し退け、ぼんやりとした顔で寝床から起き上がった。
両親の眠る寝台に目を向けることもなく、寝室の戸を開ける。
明かりの消えた居間へ出ると、冷え切った炉と食卓の脇をまっすぐ横切っていった。
出入り口のそばに置かれていた靴へ足を入れる。
留め具もきちんと留めないまま、ニィナは外へ通じる木戸に手をかけた。
木戸が僅かに軋み、静かな家の中に音を響かせる。
背後で、毛布の擦れる音がした。
「……ニィナ?」
眠たげな母親の声が寝室から聞こえた。
だが、ニィナは振り返らなかった。
呼び止める声にも反応せず、開いた戸の向こうへ足を踏み出していく。
「ニィナ、どこに行くの!?」
異変に気づいた母親が慌てて寝床を抜け、外へ出ようとする娘の腕を掴んだ。
その瞬間、目に見えない何かが弾けた。
「きゃっ!」
母親の身体が後ろへ勢いよく弾き飛ばされ、居間の床へ倒れ込む。床板を打つ大きな音が、家の中に響いた。
ニィナはその音にも振り返らず、夜明け前の村へ出ていく。
「どうした!?」
悲鳴と物音に目を覚ました父親が、寝室から駆け出してきた。
床に倒れた妻へ駆け寄り、その肩を抱き起こす。
「ニィナが……! 私は大丈夫だから、あの子を止めて!」
父親は開け放たれた木戸へ目を向けた。
外へ遠ざかっていく娘の小さな背中を見つけると、すぐさま立ち上がり、そのあとを追って家を飛び出した。
父親が道へ出たとき、ニィナはすでに家々のあいだを進んでいた。
「ニィナ!」
呼び声にも、やはり反応はない。
父親が娘を追って駆け出すと、向かいから歩いてくる二つの小さな影が目に入った。
ハンスとジョンだった。二人とも寝間着姿で、虚ろな目を前へ向けている。
兄弟の後ろからは、二人の名を呼びながら両親が追ってきていた。
別の家の戸も開き、少年が一人、道へ出てくる。その背後では、異変に気づいた母親が慌てて上着を羽織り、我が子を呼び止めていた。
さらにその先でも、二人の子供が家を抜け出し、それぞれの親がそのあとを追ってきた。
ニィナを含めて、六人。
年齢も背丈も違う子供たちは、互いに声を掛け合うことも、顔を見合わせることもなかった。
それでも初めから行き先を知っているかのように、次第に一か所へ集まり、揃って村の外れへ向かっていく。
「待ちなさい! こんな時間にどこへ行くんだ!」
ニィナの父親は子供たちを追い、先頭を歩く娘の肩へ手を伸ばした。
だが、指先が触れるより早く、目に見えない力がその身体を突き飛ばした。
「うおっ!?」
父親は道端へ投げ出され、強かに地面へ背中を打ちつける。
「あなた!」
「大丈夫か!?」
親たちのあいだから悲鳴が上がった。
それでも我が子を連れ戻そうと、ほかの親たちも子供へ駆け寄る。だが、誰かが手を伸ばすたびに見えない力が弾け、その身体を容赦なく退けた。
騒ぎを聞きつけ、周囲の家々にも次々と明かりが灯り始める。
子供の名を呼ぶ声が重なり、戸を開けた村人たちが何事かと表へ飛び出してきた。
それでも、子供たちの足は止まらない。
――来い。
――森へ来い。
繰り返される声に導かれ、六つの小さな影は、東の空が白み始めた村を抜けていった。
◇◇◇
時を同じくして――
村外れの納屋にも、呼び声は届いていた。
――来い。
アメシスの胸元に寄り添って眠るオニキスの長い耳が、声に反応して僅かに動いた。
――森へ来い。
黒い眉が、不機嫌そうに寄せられる。
「……うるせえ」
忌々しげに呟き、もぞりと身を捩る。
聞こえてくる声から逃れるように、アメシスの胸元へさらに深く顔を埋めた。
――来い。
――森へ来い。
声は、耳元から聞こえているわけではなかった。
眠りの底へ直接染み込むように、何度も同じ言葉を繰り返している。
だが、その呼び声も、オニキスの意識までは縛れない。身体を突き動かされることも、森へ行かなければならないと思うこともなかった。
ただ、眠りを妨げる鬱陶しく煩わしい声として、耳の奥に纏わりついている。
そのとき、眠気に霞んだ意識の端へ、僅かな違和感が引っかかった。
ただの夢ではない。
声には、微かな魔力が乗っている。
オニキスはアメシスの胸元で再びもぞもぞと動き、顔を上げようとした。
だが、その身じろぎを感じ取ったのか、背中に回されていたアメシスの腕に力が籠もる。小さな翼ごとさらに強く抱き込まれ、持ち上がりかけた顔は再び元の場所へ押し戻されてしまった。
「オニキスくん……大人しく寝てなさい……」
「テメ……放せ……」
オニキスはもがいたが、アメシスは目を覚まさない。
前夜遅くまで起きていたためか、オニキスを抱き直したあとも、その穏やかな寝息は途切れなかった。
オニキスはもう一度、抜け出そうと身じろぎをする。だが、幼い身体には、まだ夜明け前の眠気が重く残っていた。
背中を包む腕の中は温かく、顔を埋めた胸元は柔らかい。その心地よさが、抗おうとする意識を容赦なく眠りの底へ引き戻していく。
――森へ来い。
声の正体を考えようとしても、思考はまとまる前にほどけていく。
やがて抵抗を諦めたオニキスは、忌々しげに眉を寄せたまま、再び目を閉じた。
納屋の中に、二人分の寝息が戻る。
そのあいだにも子供たちは村を離れ、朝靄に包まれた森の奥へ向かっていた。




