第99話 使命
天に突き抜けるように聳える白い外壁と、その周りを囲む豊かな緑。
まるでこの国を象徴するような美しく厳かなゲイルシールド城が、今は淀んだ緊張感に包まれていた。
目には見えないがマシューにさえ感じることができるほど息の詰まる空気と、じくじくと肌を刺すような鈍い不快感。
「なんだ…これはっ…!?」
固く閉ざされた城門を仰ぎながらマシューは青ざめた顔で呻いた。城内は慌ただしい気配を見せ、訓練場の方からは多くの人のざわめきが遠く聞こえてくる。
「…鬼と、九尾の気配」
「えっ」
マシューの隣で同じように城門を見上げていた朔月は、不快そうに眉を顰めながら口元を覆う。
「行かなきゃ」
「お、おいっ、行くって」
「マシューは駄目、中は危険。食べられる」
「食べられる!?」
ふっと吐いた蜘蛛の糸を城壁の上部に絡めた朔月は、身軽な身のこなしであっさりと壁を登り切る。
「――サクヅキ!」
「マシューは、マシューのできること、やって」
「できることって…ボクにいったい何が…っいた!」
あの高い壁の上から飛び降りたのだろう、既に見えなくなった朔月に縋るように門へ駆け寄ろうとした時、ごつんっと後頭部に何か鋭いものがぶつかった。
「今度はなにっ…!?」
「カァァッ!」
「うわっ!!」
頭を抑えながら振り返るや、目の前にいたのは甲高い鳴き声を上げる黒い塊だった。黒く大きな翼がバサッと広がり視界を遮った。
ひっと短い悲鳴をあげながら今度こそ尻餅をついたマシューの前で、その塊はふわりと地面に足を落とす。
「――おまえがマシューか」
「んえっ…!?」
突然、流暢な人語を話した黒い塊は、おそるおそるよく見ると少年だった。いや、少年になったのだ。
「き、君は…」
「なるほど、親父が言ってた通りだな」
「親父…?」
「俺はお嬢の仲間。…で、この文はおまえが寄越したんだろ?」
庭師のような簡素な服装をした少年は、ポケットから取り出した束にされた手紙をマシューに差し出した。
それは確かにここ連日、マシューが北の果てにある実家に投げ続けたものだった(ブレイク家には手紙を運べる魔鳥を作れる魔道士がいる)。
「こいつのお陰で大体の状況は把握してる。…けど、これはちょっと予想外だったな」
改めて城を仰いで目を細めた少年は、低く舌打ちしたかと思うと真っ黒の大きな翼で空高く舞い上がった。
「って飛んだぁ…!?ええっ、あっ、鳥!?」
朔月に続き、あっさり城壁を越えた少年はマシューを見下ろして指さした。その方向は城下町。
「孤児院へ行け!そこにオッサンがいる!」
「オッサン…?って誰のこと、えっ、ちょっとまっ」
ばさりっ、羽ばたく音を立てて飛び去ってしまった少年を呆然と見送ってからしばらく、はっと我に返ったマシューは踵を返した。
ほとんど反射だった。状況なんてわかっていない。頭は何もついていけていなくて、思考だって定まってはいない。
けれど朔月も少年も言っていた。自分にできること、本当にそんなものがあるというならば。
「孤児院…!」
最近は何かと走り回ることばかりで、少し体力がついた気がする。まだまだあの娘には遠く及ばないけれど、それでも役に立てるなら。
「そこにボクにやれることがあるなら…!」
マシューは振り返らずに走り出す。次に彼女に会ったらまた、決闘を申し込むために。
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訓練場には多くの使用人たちが身を寄せ合うように集まっていた。その周辺を囲うように引かれた線は黒い炭のようなものでできていて、更にその周りを微かに光る風のベールが覆っていた。
「これで大丈夫でしょうか」
「わからない、が…今はこれしかない」
晴人とアシェルで訓練場に巨大な結界を張った。その結界の中には使用人たちでひしめき合っている。
「使用人の避難はまだ半分にも満たないです」
「…ああ」
城からはまだ続々と人々が出てきてはいるが、その波も徐々に減ってきている。ゲイルシールド城が抱える使用人の数は並ではない。この急な混乱の中で半数でも逃げられたら御の字と思うしかない。それでも。
「…なんとか…全員助けられないか」
「……今は、難しいです」
イーニアスの返事をアシェルは責めなかった。状況はわかっている。そんな甘い考えは通用しない。
「王妃様と魔導部隊がまだ城内におられます。…あの方たちを信じるしか」
「ああ」
ミアの脱獄が発覚してすぐ、エヴァは中央塔へと向かった。そこから城内に隠匿を破る魔法をかけるためだ。
気配を消せるという妖の力はどうしようもないが、魔法の方はエヴァの力を持ってすれば破ることができる。保険のようなものだが施さないに越したことはない。
アリスがどの程度、魔法に精通しているかはわからないが、もしかすると彼女の仲間がいるかもしれない。潰せる芽はできるたけ潰しておきたかった。
「これほどの広範囲にあれだけ技術のいる魔法をかけられるのは母しかいない」
アシェルでさえ緻密で集中力を要する魔法を広範囲に、ましてや長時間張るのは難しい。
「今は…俺にできることをする」
アシェルとイーニアスがやるべきこと。それは今ここに集まる使用人たちを、民を護ることだ。
「桃里…」
ほとんど無意識に呟いていた。今この城においてもっとも狙われている可能性が高く、その身に危険が多いのは彼女だというに。
(側に行くことさえ許されない…)
本当は今すぐにでも駆けつけたい気持ちを抑え込んで、アシェルは堪えるように、あるいは祈るように城を見上げた。
刹那、遠く吹き抜けるバルコニーの一画。そこに紅い髪が一瞬だけ、視界の端を掠めた。
「とう…り…」
紅い、紅い、燃えるような色だった。




