第100話 赤に染まる
「んふふ…ふふ、……あはははは!」
目の前にいるのは本当にあの少女なのだろうか。
返り血がこびりつき赤黒く染まった髪に、白く潤っていた肌は見る影もなく荒れて、鱗のような筋が走っている。
見開かれた蜂蜜色の双眸は血走り赤く染まり、歪に裂けた唇からは絶え間なく笑い声をあげていた。
そこにはもう、あの可憐な少女はいなかった。
「…ふふ、うふふ……」
三階廊下の中央。玉座の間の扉の前で、ミアは踊るように揺れていた。片手には誰ともつかない骸の頭を掴んでいる。
「…もう…心さえ失くしたのか」
数日前に相対した時もミアは正気を失っていた。しかしあの時とは比べ物にならないほど、今の彼女はもう人ではなくなっていた。
ゆらゆらゆらゆら、糸の垂れきった操り人形のように揺れていたミアの焦点の定まっていなかった視線が、不意にぎょろりと桃里の方へと向けられた。
「…わた、わワ……わたクし、ハ……おウヒ」
壊れたように揺れていたミアが手を放すと、どちゃっと不快な音とともに頭が投げ出された。
「ヮダグッ、ジガっガガ……ォウヒッッ…!!」
「なっ…!」
赤黒い足で地面を蹴り上げた瞬間、瞬きする間もなく間合いを詰めてきたミアに桃里も咄嗟に刀を抜く。
ガキンッと金属が弾かれる音がして、まるで刀同士がぶつかり合うように反響した。
「っ…素手で…!?」
ぬらぬらと光る腕は爬虫類のようにも思えるが、刀に防がれても傷一つないその強度はまさしく鉄のようだ。
「くっ…!」
以前より格段に力も速さも、そして強度も増しているミア。何より、多くの人を殺めてしまっている彼女にもう手加減はできない。
桃里は容赦なく刀を凪いでミアの腕を切り落とした。
はずだった。
「…嘘、だろ」
手応えは確かにあった。例え鉄のように硬くとも、国一番の鍛冶職人に鍛え抜かれた夜霧三日月と、今まで磨いてきた自身の剣術を前に斬れないはずはない。
事実、ミアの腕は皮一枚で辛うじてぶら下がっていた。
「ふふふ、うふふふふふ」
痛みも感じていないのか。彼女は笑ったままもう一方の手で落ちそうな腕を支えて、そして強引に傷口を押し付けた。
ぐじゅっと裂けた肉が重なると互いを喰らいあうように筋が絡みついて、みるみる傷跡が消えていく。
そして瞬く間にぴったりと、何事もなかったかのように元に戻った。
「……はは、そんな再生力、うちの親父でもないぞ」
妖との混血である桃里どころか、生粋の鬼たる父をも遥かに凌ぐ回復力。
「化物だ」
早くオリヴィアを探しに行かなければならないというのにしかし、本能が告げている。
今ここで、この化物を倒せるのは自分しかいないと。鬼と呪術師の血を引く桃里の使命。
「これ以上、殺させない」
*******
それまで感じていた霊力が大きく乱れたのを感じとった晴人は、ふと後ろを振り返った。
(――桃里)
この城、いや、国において自分以外に霊力を持っているのは桃里しかいない。その彼女の霊力が著しく弱まっている。
この感覚は晴人にとって初めてではなかった。
(あの時も、そうだった)
双子の妹である暁緒が、一人で九尾に戦いを挑んだ時。あの時も徐々に徐々に、日を追う毎に彼女の気配が薄れていった。
けれど今は、――桃里は違う。
薄れていく霊力に反して、あの男によく似た強い妖の気が高まっていくのを同時に感じた。
目が覚めるほど鮮烈で苛烈な紅色。
「暁緒、百花。どうか――」
晴人は再び前を向く。桃里はきっと大丈夫。彼女にはあの二人の加護がある。だから己は、己にしかできないことをする。
妹の仇は、必ず、この手で。
*******
ぼたぼたと血が落ちていた。真っ白だったシャツは赤く染まりべたついて気持ちが悪い。身動ぐたびに不快な音がして嗅覚は麻痺してなくなっていた。
(視界が霞む……)
どれくらいの時間が経ったのだろう。もう随分とここで足止めを食らっている気がする。
「〜〜〜♪〜〜♪」
ゆらゆら、ゆらゆら、何か歌のようなものを口ずさみながら歩み寄ってくるミアを前に、桃里は追い詰められていた。
飛び込んだのは玉座の間の向かい側の部屋で、あまり広くはないものの窓の向こうには大きなバルコニーが誂えてあった。
「くッ…」
斬っても斬っても再生するミアは、母ほど強くはない桃里の霊力を圧倒的に上回っていた。魔を斬り祓う刀として作られた夜霧三日月を以てしても、彼女の回復力には追いつけない。
対して桃里はそれほど深手ではないものの、確実に与えられた爪痕がそこかしこに残っていた。
とんっとバルコニーの縁に背中が当たる。ついに逃げ場が塞がれた。
「うふ、うふふ…あははは……!」
もはや肌の色さえわからなくなるほど真っ赤に染まった手が、ぬるりと桃里の顔に伸びてくる。
「チッ…!」
咄嗟にバルコニーの柵に飛び上がるもいよいよ後がなくなった時、ふと視界の端に煌めくものを捉えた。
(あれ…!)
考えている暇はなかった。桃里はミアの胸倉を捕まえる。
皮膚の内側から肉と骨が軋む音がした。いくら桃里が普通の女子より怪力とはいえ、傷だらけの片腕で同じ体格の人間を投げるのは容易くはない。
それでも桃里は折れることなく、片腕の力だけでミアを宙に投げ飛ばした。
「はは、アッ……アアアア!!」
急に安定感を失ったことにようやく投げ出されたと気づいたのだろう、藻掻きながら叫ぶミアの後を追い、桃里は自ら柵を蹴る。
(これで…!)
落下するミアの真上を取り、胸を思いきり蹴り落とそうと足を振り下ろす。しかしそれより僅かに早く、彼女の手が縋るように靡く桃里の髪を掴んだ。
ぐっと髪を引かれて首が捩れるも桃里は動揺することなく片手に持った刀を逆手に持ち直し、躊躇いなく髪を切り捨てた。
「――終焉だ」
乾くほど見開かれた真っ赤な目をしたミアを足場にする要領で、今度こそ眼下へと蹴り落とす。
空中に残された桃里の真紅の眼が見据える先には、鋭く尖った無数の槍が並んでいた。




