第97話 開戦前
フゥーっと、細く長い息を吐き出す。握り込んだ手のひらからは赤い血が一筋垂れていた。
「お嬢」
拳に触れた少し冷たい晴人の手が、高まる熱を鎮めるようにゆっくりと指を解いていく。爪の跡がくっきりとついた手のひらを見下ろして、桃里はぐっと目を閉じた。
「…私の失策だ」
「お嬢だけのせいではありませんよ。皆の隙をつかれただけです。それに自分を責めても何も始まらない」
目の前にある牢屋は特に荒れた気配はない。しかし柵を埋め尽くすように貼り付けられていた晴人の札はすべて、跡形もなく燃え尽きていた。
「敵の力を見誤った、これは私の落ち度です」
晴人は足元に落ちていた灰を拾い上げつつ呟いた。
「…敵の姿は、なんだ」
地下牢にはミアの気配しか残っていない。ミアを脱獄させ、更にはオリヴィアを攫った見えない敵。見えない?
「――違う、見えている。敵は既に私たちの前にいるんだ」
「はい」
弾かれたように顔を上げた桃里の視線に、晴人は肯定するように頷いた。
「私はリヴィを探す。おまえはアッシュたちと合流しろ」
「御意」
「…それから、ジュリアのことも頼む」
「かしこまりました」
シャツの袖を捲り上げて、ばさりと陣羽織を翻す。赤い牡丹柄の上に真紅の髪を靡かせて、ガツンとブーツの踵で地面を叩きつけた。
「戦の始まりだ」
腰に帯びた夜霧三日月が、薄暗い地下牢に煌めいた。
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ゲイルシールド城は未だかつてないほどにざわめいていた。不安、不審、疑心、恐怖。様々な感情が渦巻く城は、それまでの平穏を完全に失っていた。
「――あっ!ありました…!ですが…これはっ……!」
城内でもあまり人が近づくことのない城の外れに位置する用水路、そこから聞こえた部下の叫び声はどこか怯えを含んでいた。
その声の正体に、駆け付けたイーニアスはすぐ気がつくことになる。
「ッッ…なんて……惨い」
眼前に広がっていたもの、それは無残な姿をした死体だった。ある程度死体を見慣れているはずの兵士たちでさえ目を逸らし、中には嘔吐する者もいた。
まるで獣に食い荒らされたような腐敗したその死体は、赤黒く変色していたが間違いない。城のメイド服も纏っている。
「シンシア…」
イーニアスの隣に佇んでいたジュリアは、信じられないものを見るように凝視していた。
「ジュリアの言っていたメイドで間違いありませんか」
大の男でさえ顔を背ける死体の前に膝をついたジュリアは、そっとハンカチで頬の血を拭ってやる。しかし既に乾燥して肌にこびりついたそれを拭い去ることはできなかった。
「ええ…茶色い癖っ毛に、ソバカスがチャームポイントだった。とても気の利く…優しい子」
十代から城務めをしていたジュリアにとって、立場は違えど彼女は長い付き合いの同僚だったのだろう。
「これで晴人殿の説に真実味が帯びました」
シンシアの顔にハンカチをかけてやるジュリアを背に、イーニアスは声を張り上げた。
「ルイス!晴人様をここへ!他の者は引き続き警戒を!侵入者の姿は不明!不審あらば必ず私に報告を!」
「はっ!」
持ち場に戻る部下たちを見送り、イーニアスは砕けそうなほど強く奥歯を噛んだ。
『推測ですが、アリスは九尾の力を得ています。――以前お話しましたが、九尾の特性。"食らった相手の能力を得て、そしてその姿を奪う"…これはつまり、相手の記憶を持つということです。今のアリスはこの力を持っていると思われます』
この城には三重の結界が張られている。一つは元々エヴァたち魔道士が張っていた魔法での結界。更に重ねて桃里の父の刀、幽斬り丸による結界。そして、桃里の神楽の結界。
この三つが揃った上に、警備も今まで以上に強化していた。使用人も外出や帰宅は制限し、必ず二人一組の行動を義務付けている。
いくら隠蔽能力のある布があったとして、そんな厳重なで部外者が侵入できるのだろうか。
しかしその問にも晴人は落ち着きすぎているほど静かな声で答えを出した。
『アリスが侵入したのはおそらく…ミアが登城してきた日』
ミアが桃里の元に訪れたあの日。イーニアスはアシェルについてエバンス邸へ出向いていた。
一方、桃里たちはミアと相対する応接室に集まっていた。
『ミアも大大将様の布を身に着けていましたが、それ以前に私たちはわざと彼女を招き入れた』
騒ぎが起こり、ミアの放つ瘴気が渦巻く中でアリスは城内に紛れ込んだのだ。これまでずっと姿を隠していた相手が、まさか直接乗り込んでくるなんて誰も思わなかったのだ。
城に入ったアリスはシンシアを襲い、そして彼女の姿を模倣して更にはジュリアの姿をも装った。しかしふと、疑問に思う。
ジュリアは殺されてはいない。ならばなぜアリスはジュリアの姿に化けれたのか。
「ジュリア、ここ数日で何か変わったことはありませんでしたか?」
「変わったこと…」
「はい。敵は相手を食らわなければ奪えない、ならばなぜ、あなたの姿を模倣できたのです」
はっとしたようにジュリアは目を見開いた。しばらく考え込むように俯いて自分の指先を見つめた。
「昨日、厨房で食器が割れたの。落としたのは、シンシアで…一緒に片付けてて…同時に同じ欠片を拾った、その時に……」
すっと、ジュリアは包帯の巻かれた指先をイーニアスに向けた。
「偶然だと思ったの。シンシアが欠片を引っ張って、指が少し切れて、血が…」
「それだ」
ジュリアの血と、そしてシンシアの記憶からアリスは偽の姿を作り出した。
「血の一滴からでも姿を変えられる。もうこの城に、信用できる者はほとんどいないかもしれない」
身動きが取れなくなってきた。イーニアスは珍しく苛立ちを露わにして次の行動を考える。
一刻も早く、何としてでもアリスを捕らえなければならない。




