第96話 崩壊の兆し
地下牢に拘束されていたはずのミアが消えた。
「どういうことだッ!!」
いつになく怒りを孕んだ声を荒げるアシェルの前で、深く頭を垂れていたのはジュリアだ。その隣に立つイーニアスは、荒ぶる主人を落ち着けるように努めて冷静な声で続けた。
「地下牢に繋がる扉の前には、絶えず兵を二人一組で配置していました。いずれも私の直属の部下たちです」
選ばれたのは腕はもちろん、余計な詮索は一切せずに特に口が固い、イーニアスが慎重に選別した信頼をおける者たちだ。
「その時担当していた兵に確認したところ、世話係のジュリアが訪れたために道を開けたと証言しています」
「だが訪問の時間は決めていた。その時間以外に来たのなら、例えジュリアでも兵は通さないはずだろう」
「そこなんですが…」
「申し訳ございません…!」
言い淀むイーニアスに被せるように声を上げたのはジュリア本人だった。下げていた頭を更に深く伏せる。
「私のせいなんです、私のせいで…!」
「…ジュリア」
ぐっと両手を握りしめて俯くジュリアに、アシェルは熱い息を吐き出して自分を落ち着かせる。
「おまえを疑ってはいない。話してくれ」
「…はい」
いつも通りの時間、ジュリアは部下を一人だけ連れて地下牢の前へと訪れた。この部下もジュリアと同じ隠密で、もちろんすべての事情を把握している。
兵士たちといくつか言葉を交わして常の通り扉を抜けようとした時、彼女を呼び止める声がした。
慌てた様子で走ってきたメイドはジュリアもよく知る古株で、無碍にもできなかった彼女はメイドの話を聞くことにした。
「もちろん後にしてもらうつもりでした。ですがその内容が…『桃里様がお倒れになられた』と」
青ざめた顔で報告してくるメイドの様子に、緊急性が高いと判断したジュリアと部下は兵士に事情を伝えてその場を離れた。
「兵たちもその現場は見ていました。それにジュリアの部下が私の元に報せにきたのも同時刻で一致します」
急ぎジュリアは桃里の元へ向かった。しかし訪れた部屋にいたのはいつもと変わらず、ソファーに座って書物に目を落とす桃里の姿だった。
「嘘の情報を掴まされたとわかり、すぐに桃里様も例のメイドを探しに出てくださいました」
「ああ、俺にも晴人から報せがあった」
アシェルやセオドアの耳にも不審な動きをするメイドが城内にいると伝わる頃、ジュリアはもう一度地下牢の前に行った。
そこにいたのは先程の兵士たちで、しかし彼らはジュリアを見るなり大声を張り上げた。
「そうして本物ののジュリアが捕らえられたと言うことか」
「…っ申し訳ございません!」
兵士たちが言うには、ジュリアはあの後すぐに戻ってきたという。桃里が倒れたのは疲れによるもので大事はなく、自分が側にいるほどではないというようなことを話していたらしい。
あまりにも普段と数分変わらぬ彼女の言動に、兵たちも納得してしまった。そして、その"ジュリアの姿をした何者か"を通してしまったのだという。
ゆえに時間を置いて戻ったジュリアが逆に不審人物として捕らえられたのだ。
「だが地下牢に他の出入り口はない。入ったそいつとミアはどこに消えたんだ」
「すぐに兵たちにも調べさせましたが、牢はおろか地下自体がもぬけの殻…今は桃里様と晴人様が痕跡を探してくれています」
不審なメイド、ジュリアと接点の濃い兵士たちをも騙した何者か、厳重に封印されていた牢獄を破った方法。
エバンス公爵家が崩壊し、ミアを捉えたことで城の警備はより厳重になっていた。城門での検疫は厳しく行われ、使用人の身元もすべて洗い直した直後のことだ。
「そのメイド…ジュリアは知っている者なんだろう」
「はい。もう十年ほど勤めている者です。真面目で丁寧な仕事をするので、ここ数年は主に食事係を務めておりました」
桃里につけているメイドはジュリアを筆頭に隠密活動をする精鋭のみで一般の使用人は近付けてはいなかったが、だからといってまったく誰も桃里と関わらないわけでもない。
長年勤めていて信頼されたメイドがジュリアの元に報せにくるのは何も不思議なことではなかった。
「とにかく今は責任の所在を探している場合ではない。ジュリア」
「はい」
下げたままだった頭をようやく上げたジュリアは、まっすぐ見つめてくる主の目を逸らすことなく見返した。明るめの茶色い瞳が鋭い氷に貫かれる。
「桃里の元へ行け。必ず、彼女を護れ」
「っ…よろしいのですか」
自分が本物だと、ジュリアは証明できていない。もしかしたら今ここにいるジュリアこそが偽物の可能性もあった。
それでもアシェルは頷いた。
「今日まで見てきたおまえを、俺は信じる」
ぐっと、ジュリアの顔が上がった。少し釣り目がちの強い双眸に炎が宿る。
「このジュリア、命に替えても桃里様をお護りします!」
兵士のような所作でその場にしゃがみ込んだジュリアは、胸に手を当てて一礼する。そこに先程までの弱々しい彼女はもういなかった。
しかし、ここから事態は更に動く。
そのままジュリアが執務室を出ようと踵を返した瞬間、激しい音を立てて扉を開いたのはシロエだった。
「シロエ…!?君はまだ養生していないと」
「そんなっ、そんな場合じゃない…!」
何とか人の姿に維持しているのだろう、中途半端に耳と尻尾が出ている彼女は部屋着のまま扉を支えに辛うじて立っているようだった。
咄嗟に側に駆け寄ったジュリアの腕を押し退けて、シロエは縋るようにアシェルに手を伸ばす。
「リヴィ様がっ、攫われた…!!」
ざあっと血の気が引く音がした。
何かが。見えない何かが内側から蠢いて、臓物を食い破ろうと這いだしている。そんな不快な感覚と、不気味な気配に全身の産毛が逆立った。
シルフ一族の、否、このシルフィルドという国の、瓦解のカウントダウンが始まっていた。




