第93話 弔いの詞
穏やかな風に包まれた上階とは違い長らく使われていなかった城の地下牢は、湿気とカビの臭いが充満する酷い環境だった。
時折どこかで水が滴る音がして、鼠のような鳴き声もする。窓も一切ないため陽の光が入ることはなく、唯一あるのは通路に等間隔に備えられた蝋燭の灯りだけだった。
同じ城内とは思えないひんやりとした空気が肌を刺す、暗く寂しい場所。
そんな地下の最奥。錆びて建てつけも怪しい牢屋の柵にはびっしりと札が張り巡らされ、その中で地面に横たわる少女もまた黒い縄できつく縛られていた。
「ミア…」
あまりに痛ましいその姿に、アシェルは微かに目を細めた。
とても華やかな少女だった。よく手入れされたオレンジ色の髪はいつも綺麗に纏められていて、艶のある頬と爪先は淡い桜色をしていた。
彼女が自分に好意を抱いていることは、幼い頃初めて会った時から気が付いていた。
しかしどうしても彼女を好きにはなれなかった。いや、彼女だけではない。アシェルにとって王家に関わるすべての人間に好意を抱けたことがなかった。
(だけど、嫌いだったわけでもない)
彼女の想いに報いることはできないとわかっていた。それでも周りが決めたことならばいずれは彼女を妻に迎えて、そうして生きていくのだと思っていたのだ。
「でん…か……?」
掠れた声が牢に響いた。汚れて黒ずんだ頬を持ち上げて彷徨わせていた澱んだ蜂蜜色の瞳が、アシェルの顔に焦点を結んだ。
「…で、んか……来て、くださり…ま、したのね……ああ…でんか……助けてください…わたくし…わたくし……こんな、ひどい……」
ずりずりと地面を這い寄ってきたミアが必死に顔を持ち上げると流れ落ちた髪の一房が柵に触れた。瞬間、バチンっと激しい音がして「キャアッ!」短い悲鳴が上がる。
「あ…あ……でんか…でんか…おねがい……。あけて…おねがい……」
あれほど美しくてプライドが高く、公爵家の娘であることを全身で誇っていた少女が、まるで芋虫のように這っている。
しかしアシェルの心は動かなかった。今の彼女よりもずっとエバンス邸にいた者たちの姿は凄惨で、何より無実の者たちまでがその犠牲になった。
「ああ…まって、まって……でんか、」
彼らをそのような姿にしたのは他でもない、彼女なのだ。
「――ミア・ローズ・エバンス」
それでもなお縋ってくるミアにアシェルは静かに口を開いた。できるだけ感情的にならないように、怒りも憂いも哀しみも、すべてを押し殺すように。
いつも氷のようだと言われた青い瞳から、感情という色が消えた。
「尋問の後、おまえを――極刑に処す」
救えないのだ。もう、彼女は救えない。
それほどまでの大罪を自らの欲のために彼女は負ってしまった。
踵を返したアシェルを呼び止める声が反響して、何重にもなって背中にまとわりついてくる。
それはまるで呪詛のようだったが、今のアシェルにその程度の呪いは届きはしなかった。
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ミアが捉えられた翌日。一息つく暇もなくエバンス邸の前に立った桃里は、そのあまりの瘴気と渦巻く負の感情に言葉を失った。
屋敷を脱出したあの後、城に辿り着いた途端にシロエが倒れた。強すぎる呪詛に当てられたせいだと晴人は言っていた。
幸い処置も早く大事には至らなかったが、人の姿すら保てなくなった彼女は今も城で養生している。
「…酷い」
口元を覆った晴人にいつもの飄々とした笑みはない。見開かれた黒い瞳が映す先には、きっとそれらが視えているのだろう。
「祓えるか?」
桃里の背中をさり気なく支えながら、アシェルは願うように問いかけた。しかしその願いも虚しく、桃里は悔いるように首を横に振った。
「…もう、手遅れだ」
少しだけ足をふらつかせながら桃里は屋敷に一歩だけ近づくと、到底届かない手を伸ばす。
「彼らはもう…死んでいるんだ」
「なんだと…?」
ぐっと唇を噛んだ桃里に代わり、答えたのはやはり晴人だった。
「九尾か、あるいは鬼女にか。どちらにせよ取り憑かれた後、体が保たなかったのです。若様の話を聞く限り、幸か不幸か…意識はあったようですが。彼らの人としての肉体はもう、死んでいるのです」
死者を救うことは神にもできない。それは森羅万象すべての理だった。
「…でもせめて、憑いているものは祓ってやらないと」
桃里は携えていた刀を抜くと、長く深い呼吸をしてからすっと三日月のようなそれを天に掲げた。
「剣舞です。ここに囚われてしまった霊魂を、神の元へ送ります」
透き通るような晴人の詞声が、雲を裂いて天へと吸い込まれていく。
晴人の詠唱(後に祝詞だと教わった)に合わせて、桃里の刀が空に流れた。
ハロルドや朔月の呪いを祓った時とも、成人祭の神楽とも違う。
それはとても、哀しい調べ。
低い秋の終わりを告げる空の下で、彼らはひたすら唱う、舞い続ける。不幸にも異形と変えられ、この歪な屋敷に囚われてしまった魂を鎮めて送るために。
ただ祈ることしかできないアシェルとイーニアスも、せめて彼らが女神シルフの腕に抱かれ安息の時を得られるように、胸に手を当てて空を仰いだ。
哀しいほどに晴れた空が、彼らにとっての唯一の救いに思えた。




