第92話 崩壊の音
突然の轟音に驚いたイーニアスとシロエが急いで屋敷に駆け付けると、ちょうどアシェルが窓から出てくるところだった。
煤にまみれた姿のマシューに続いて同じ有様のアシェルが現れる。彼は抱き上げてた朔月を先んじて外に出ていたマシューに手渡し、窓枠の残骸を超えていた。
ボロボロにぶち破られた外壁と室内から溢れてくる煙に思わず呆然と立ちすくんでいたイーニアスは、はっと我に返ってアシェルに駆け寄る。
「殿下…!大丈夫ですか!?いったい何が…」
「大丈夫だ、それよりシロエ」
「はにゃ!?」
慌てるイーニアスに見た目ほど大事はないと手を振って、アシェルはそのままシロエに視線を向ける。
「あの穴を塞げるか?」
「穴…?ああっ、結界が張ってあったんだ!」
瞳孔を細めて破れた窓を見つめたシロエは、それ以上は何も言わずに「やってみる!」両手を裂け目に突き出してぐっと目を閉じた。
「殿下、本当に何が…」
「ッあいたっ…!」
まったく状況の読めないイーニアスが説明を求めた時、どすんっという鈍い音とともに座り込んでいたのはマシューだった。
「腰抜けた…」
「…悪い、先にあいつに手を貸してやってくれ」
「わかりました」
軽く目だけで示したアシェルは、ようやく吸い込んだ新鮮な空気を細く長く吐き出した。
残念ながら空は鈍い雲に覆われていたが、あの不気味で異常な屋敷の中よりはずっとよかった。
「アッシュ」
ほうっと改めて吐息を零した時、アシェルの側に来たのは朔月だ。手に拳大の糸の塊を握っていた。
「拾ってくれたのか…ありがとう」
「うん」
受け取った糸玉を丁寧に解すと、中から現れたのは小さな紅い勾玉だった。
「また…頼ってしまったな」
我ながら一人では何もできない無力さと不甲斐なさに情けなくなる。とはいえそんなことばかりを言ってはいられない状況なのだと、アシェルはちゃんと理解していた。
(…早く城に戻らないと)
そうわかっているはずなのに、なんとなく城の方は大丈夫な気がする。そう思えるだけの信頼が今の彼女にはあった。
アシェルは振り返って屋敷を見上げると、最後に聞いた言葉を思い返して複雑な想いに眉根を寄せた。
(あの結界を破れたのは、本当に紙一重の賭けだった――)
朔月の頭を抑えながら伏せた頭上で、凄まじい水蒸気の爆発が起こると粉々になったガラスの破片が熱風とともに吹き荒れた。
高温で熱せられた硝子に冷水を叩きつけたアシェルは、そこにもう一つ力を加えた。
それこそがあの勾玉だった。桃里の父親の力で作られたそれを朔月の妖力を含んだ糸で包み込み、それを投げ放ったのだ。
ふたつの物理的な力に加え、強い妖力の塊をぶつけるというのはほとんど直感だけで閃いたことだった。幸い読み通りに計画は成功し、物理的にも呪術的にも穴を開けることに成功した。
マシュー、朔月の順で外に逃れ、最後にアシェルが出ようと窓枠に足をかけた時。掠れた吃音が呼び止めた。
『……ォ、ニ、ハ……』
公爵でも婦人でもない声にアシェルは怪訝に思いながら振り返る。誰が発したのか、糸の檻に阻まれた声の主は見つからない。
『……オニ、……ミ、……ァ、サ……マ、……』
「鬼はミア様」。ほとんど聞き取れないほどのか弱い声だったが、よく耳を澄ませるとこの声には聞き覚えがあった。屋敷に来た時に案内してくれたメイドの声。
「――必ず戻る。見殺しには、しない」
王族として、人として。彼らを見捨てるという選択肢をアシェルは持ち合わせてはいなかった。
一方的だとわかりながらもこんな場所へと残していく彼らにそれだけを言いおいて、今はただ光の差す方へ歩み出す。
例えどれほどの憐れみを前にしても、立ち止まってる暇はない。むしろ彼らを救うためにも一刻も早く彼女の元へ戻らなければならないのだ。
「で、できた!!」
ぱっと顔を上げたシロエは、額に汗を浮かべながら明るい笑顔で拳を握った。
「よし!城へ戻る!イーニアス、出発だ!」
「はっ!」
既に馬車にマシューを連れて行っていたイーニアスは一旦言及するのはやめ、命令通り馬を引いた。
「最速で戻りたい。やれるな」
「もちろん」
本当ならば転移魔法を使いたいほどだったが、あの魔法は一定時間ゲートが開いたままになる。ゆえに屋敷から脱出するためにも城へ直接戻る手段は使えなかった。
外からも内からも迂闊に城に通じるゲートを繋げなくなった今、自力で戻るしか他はない。
「行くぞ」
馬の嘶きに呼応したかのように、厚く遮っていた雲から少しだけ太陽が顔を出していた。




