第90話 狐の餌場
助けて、助けて、と涙を流しながら同じ言葉を繰り返すそれらを前に、アシェルとマシューは困惑していた。
どういった状況なのか、醜悪な姿に変えられた公爵と婦人らしきその獣は特に襲ってくるわけでもなく、朔月の作った巣の中でただ啜り泣いている。
「…ねぇ、殿下。これ本当にどういうことなの」
「俺に聞くな」
問われたところでアシェルも答えなんて持ち合わせてはいない。
今わかっていることといえば、屋敷には結界が張られて出られないということ。
そしてこの屋敷にいる者たちは公爵たちだけではなく、他の者たちも何かしらに取り憑かれているようだということだけだ。
「ここ、檻」
ぽつりと呟いたのは、それまで一言も発さなかった朔月だった。
「檻?どういうことだ?」
しゃがみ込んで公爵たちを見つめていた朔月はおもむろに立ち上がると、ぐるりと回って周囲を見渡した。
「ここは、鬼の檻」
「鬼?」
こくん、頷いた朔月の言葉にアシェルはいよいよ混乱する。鬼と言えば桃里だ。しかし桃里がここに何かをしたという話は聞いていない。ならば新たに現れた鬼とはいったい。
「鬼…ここにいた。狐の餌、逃さないため」
「狐の餌…サク、すまない。もう少しわかるように話してくれ。できるか?」
異様な光景だと思う。
かつては豪奢だった公爵家の玄関先で、方や蜘蛛の巣の中で啜り泣く化物、方や怯えて扉に張り付く男。そして自分は幼児の前にしゃがんで必死に言葉を引き出そうとしている。
「んんー…」
まるで迷子の子供と話しているような気分になりそうになる。何もかもがこの異常な状況が逆になんとか理性を保ってくれていた。
困ったように首をこてこてと傾げている朔月に緩みそうになる緊張感を引き締めて、アシェルはどうしたものかと眉間を寄せ、そこでふと思い出した。
――なるほど、微かに漂うのはお嬢の霊力と妖力、それに若様の魔力ですか。化けた容姿がお二人に似たのはこれの影響でしょうね――
「そうか…サク、おいで」
広げた両腕に素直に飛び込んできた朔月を、アシェルはしっかりと抱きしめた。
「で、殿下…?こんな時に何やって…」
次の瞬間、ふわりと春風が流れるようにアシェルの魔力が朔月を包み込む。上手くいく確信はなかったが、これしか思いつかなかった。
「えっ!?」
腕を離して見やった朔月は、先程より少し大きい、レオほどの少年になっていた。
「サクヅキが大きくなった!?」
驚くマシューの声に、成功したと安堵した。
「サク」
深い湖のような青い目がじっとアシェルを見つめてから、ふわっと笑う。
「アッシュ」
その笑顔が限りなく桃里に似ている気がして場違いながらも一瞬どきりとしてしまう。というかなぜ自分の魔力を吸ってより桃里に似るのだと、やはり場違いな思考が巡った。
「アッシュ」
「あっ、ああ。…サク、説明できるか?」
「うん」
「…ねぇ、ちょっと服ちっちゃくない?犯罪臭いよ」
不思議なことに妖というのは獣から人の姿に変形しても衣類は身に着けたままだが、さすがにサイズはどうしようもなかったらしい。
窮屈そうな朔月に、マシューは自分のジャケットを脱いでかけてやる。女性以外にも気の利く男らしいが、これはこれで大きすぎる。
「ありがとう、マシュー」
「なぁに、気にすることはないさ」
もうマシューの中で朔月が大蜘蛛だったことはすっかり忘れているのだろう。
いよいよ異様な光景に拍車がかかりそうになったころ、捲られた袖から細い腕を伸ばして朔月は屋敷を指差した。
「ここは鬼の檻。鬼は、桃里じゃない。別の鬼。その鬼が、餌を閉じ込めている」
「餌というのは」
すっと、幼い指が公爵たちに向けられた。
「これは、九尾の餌。妖の中には、憎悪や、苦痛を食らうのがいる。晴人から聞いた。だから、この結界は、入れるけど、出られない。この餌たちの檻」
未だに助けを求め続ける公爵たちの後ろには、同じような姿に変えられた使用人たちも集まってきていた。
その中には最初に案内されたメイドもいて、彼女はどうやら脚が獣のようになっていたらしい。
「彼女は…玄関を開けてくれたメイドだ」
「たぶん招き入れるため。でも外には出られない」
先程のよう朔月が糸を吐いて、廊下をふたつに分断する。まるで壁のようにできた糸の柵に阻まれながら、彼らもまた助けを求めていた。
「僕は何もできない。桃里じゃないと、救えない」
どうする?と成長してもあまり大きく表情を動かさない朔月に、アシェルは少し考える。どちらにせよ此処を出ないことには始まらない。
「もし結界を破ったら、彼らはどうなる?」
「わからない。逃げ出すかもしれないし、死ぬかもしれない」
「逃げ出したとして、人を襲うことはあるか?」
「あるかもしれないし、ないかもしれない」
「あー!もうハッキリしないなぁ!」
アシェルと朔月の問答にマシューはがしがしと頭を掻くと、おもむろに朔月を抱き上げた。
「どっちにしろ出るしかないでしょ!後のことは出てから考えよう!」
「そうだな。とにかく馬車に戻ろう。シロエなら何かわかるかもしれない」
改めて扉に向かった三人に獣の手が引き止めるように伸ばされて、しかしそれは蜘蛛の糸に遮られる。
「で、どうやって出るの?」
「サク」
「……わかんない」
「堂々巡りじゃん!!」
しゅんとする朔月の頭を撫でながら、アシェルはひたすら思考を回していた。何か、何かないか。
ここの結界は呪術によるものだ。物理的な攻撃はおろか魔法も通用しないだろう。物理的な攻撃に、呪…ふと、ひとつ閃いた。一点だけなら、あるいは。
「マシュー、おまえは魔法で一番得意な属性はなんだ?」
「は?えっ、あー…一応、火。でも下手だよ、知ってると思うけど」
「下手なの?練習しなきゃね?」朔月にすら馬鹿にされて項垂れたマシューに、アシェルはにっと口角を持ち上げた。
「ツイてる。――俺は、水が得意なんだ」
「はぁ?」
訝しんで顔を上げるマシューをもう見ることなく、アシェルは廊下の脇の窓に向かっていた。




