第89話 鬼人と鬼女
"鬼女"とは。自己を憐れみ、他者を妬み。世を呪い憎む心に魔が宿り、次第に持ち主の心を食らって表に現れた者のことである。
その種がどうやって生まれるかはわからない。しかし一つだけ、明白なことがある。
それは妖や呪いの類ではなく、その人そのものが生み出す心の穢れ。
主に女が宿しやすく、その理由もまた定かではない。そもそも人間はおろか、妖や神の理すら外れた歪な存在。
「つまりミアはその"キジョ"というものになってると」
「ええ。それはお嬢も察していました」
桃里とミアがいる部屋の前、廊下にしゃがみ込んだ晴人をセオドアは見下ろした。
「だったらジュリアだけじゃ心許ない、すぐにアッシュたちを呼び戻しさないと…」
「その必要はありません。彼女は若様がいては本性を表さないでしょう」
「…危険だとは思わなかったのかい?」
ブチリっと、音を立てたのは晴人の指先だった。
歯で噛みちぎった親指の先からどろりと血が流れ出す。ほとんど黒に近くも見える赤黒い血で、晴人は床に文字を書き始める。
「百も承知。獲物を捕まえるためには罠に飛び込むことも時には必要です」
それほど出血していたのか、掠れてはいるが扉前の廊下に不気味な文字がびっしりと刻まれていく。
「…それは?」
「こちらの罠ですよ。ここに出てくるようにお嬢が仕向ける手はずになっています」
「つまり君たちはここにミアが来るとわかっていて、アッシュとマシューを行かせたわけか。…どうしてわかった?」
「ただの勘です。アテが外れた時のためにシロエを行かせました」
刻まれた文字の上に手を置いた晴人が何事かを呟くと、指先から広がるように文字が淡く光りだした。
「ですが、あの娘の狙いがお嬢であることはわかっていましたから。だから餌になっただけですよ」
「っ…わざわざそんな危険な真似、僕らは頼んでいない…!」
「ええ。頼まれていません」
珍しく激高して声を荒げるセオドアに、ゆっくりと腰を上げた晴人は慈愛を含んだ眼差しを向ける。
「お嬢が、そうしたいと言ったのです。若様やあなた方の力になりたいと。だから私はそれに従った」
「桃里ちゃんが……」
「それに」
そのまま扉の方へ向き直ると、まるで立ち上がったばかりの子を見守る親のような表情を浮かべた。
「桃里は負けませんよ。――あの子は、本物の鬼の血を引く娘ですから」
*******
ミアがいないとわかった以上、この屋敷にいる理由もない。
応接室を飛び出したアシェルとマシューはしかし、玄関前で足を止めていた。
「開かない…!鍵は開いてるのに、どうなってるんだい!?」
ガチャガチャと乱暴にドアノブを上下させるマシューの隣で、アシェルは壁に手を寄せる。
「結界か…しかもこれは呪だろうな。罠だったんだ」
「冷静な分析はありがたいけど、じゃあどうやって出るんだ!」
「…シロエに報せられれば、あるいは」
「報せられないから困ってるんだよ!?」
これだけ部外者(主にマシュー)が騒いでいるというのに、主人はおろか使用人すらやってこない。
むしろ屋敷は死んだように静まり返っていて、それが逆に不気味さを際立たせる。
ぞわっと、肌が粟立ったのはその瞬間だった。
ひた、ひた、と、薄暗い廊下の奥から何かが近付いてくるのがわかる。
扉相手に格闘して騒ぎ立てるマシューの隣でアシェルは静かに目を凝らす。しかしその姿を捉えた途端、反射的に後退った。
「今度は何っ!」
ドンッと壁にぶつかる音に顔を上げたマシューはそのままアシェルの視線を追って振り返る。
「ヒッ……!?」
ひた、ひた。長い廊下の奥から現れたのはふたつの人影らしきもの。しかしあれは人影、と呼んでもいいのだろうか。
それらは半分、獣のような姿をしていた。
「ななな、なにあれ、なにあれ…!?」
「わかるか。…でもたぶん公爵と婦人…だったもの」
ドアノブを握りしめたまま硬直しているマシューとは違い、そのおぞましさにも堪えながら観察していたアシェルは身なりや背格好からの推測をあげる。
「そんなこと聞いてないから!公爵と婦人が、なんで…なんであんなっ…!」
瞼を剥がれたように剥き出しの眼球に、犬のように伸びた鼻先と、開かれた口から溢れて伸びた舌。
毛深い両腕はだらりと垂れていて、それこそ犬猫がむりやり二足歩行をさせられているかのようにおぼつかない足取りで迫ってくる。
「まるで、――狐だ」
否、狐なんて可愛らしいものではない。あってたまるか。徐々に近付いてくるそれに、さすがにアシェルも歯噛みした。生理的嫌悪感に鳥肌が収まらない。
その時、ぴょこんっと飛び出したのはアシェルの胸ポケットにいた朔月だった。
「サク!」
地面に着地した瞬間、ふわっと幼児の姿になった朔月は、じっと狐を見つめたまま両手のひらを口元に寄せた。
そのままふっと息を吹くと、たちまち細い糸が張り巡らされ、さながら蜘蛛の巣がごとく公爵たちの体を絡めとっていく。
「っサクヅキー!よくやったー!偉いぞ〜!」
それまでガチガチと歯の音を鳴らして怯えていたマシューが抱きついて頭を撫でまわすも、朔月は無視してただじっと公爵たちを見つめていた。
「…サク?」
これだけの異変が起こっても特に警戒しているわけでもない。青い目を瞬かせているだけの朔月の様子を訝しんだアシェルは、そこでようやく思い当たった。
思えばこの屋敷に入ってからも朔月は反応していなかったのだ。
「サク、これは一体…」
『……カ』
しかし、答えたのは朔月ではなかった。
『……デデ、……ん、カ……』
「ひっ、なに…!?」
今度は朔月を抱きしめて後退ったマシューに構わず、アシェルは驚愕に瞠目して蜘蛛の巣を見据えた。
『よ、よよ、コソ……オオ、いデ、くだダ……』
格子状の巣の隙間から覗く不気味で不快感を伴う、溢れ落ちそうな双眸から流れ落ちているもの。
『ダ、ダダ……ダズ……げ…、ッ デ……』
それは間違いない、涙だった。
――助けて――
酷い吃音と異臭を放ちながら紡がれた声は、それでも確かに聞き覚えのある。
「やはり…エバンス公爵…」




