第88話 二匹の鬼
桃里と招かれた茶会ぶりに訪れたエバンス邸は、以前よりも閑散とした空気が漂っていた。
難色を示していたがイーニアスとシロエ(実は猫の姿で馬車の屋根に乗っていた)は万が一に備えて馬車に残り、マシューと二人で屋敷の扉を叩く。
出てきた案内役のメイドは覇気がなく、どこかよそよそしい。やつれた顔で取り繕った笑顔を作る姿に、さすがのマシューも普段の軽率な言葉は出なかったようだ。
「不気味だねぇ…」
「九尾の影響なのか、単に主への不信感なのか。まずはミアと公爵に会わないことには始まらない」
「その二人が化け物になってたらどうするの?」
「…その時考える」
楚々というより、よたよたとした足取りで前を歩くメイドの後ろで耳打ちしてきたマシューに、アシェルは低く答える。
「主を呼んで参ります。しばらくここでお待ちください」
折り目正しくお辞儀をして出ていくメイドを見届け、アシェルはようやく小さく息を吐いた。
「ここのメイドってあんなロングのスカートだったっけ?歩き辛そうだったけど」
「さぁ…」
何やら呟いているマシューに曖昧な返事をしつつ、アシェルは室内を見渡した。
通されたのは幾度か入ったことのある広い応接室だ。室内には特に変わった様子はないが、窓の外に見える庭は手入れが行き届いていない。
「…ミアは花が好きだった」
「意外だなぁ。あの自分中心なお嬢様にも、花を愛でるなんて可愛らしいところがあったんだ」
初めの頃の軽薄さや桃里に伸され続けていた印象のせいで何も考えていない放蕩息子かと思っていたが、マシューは存外よく人を見ている。
そこはやはりブレイク卿の縁者なのかと、アシェルは荒れた庭を眺めながら思った。
「昔はよく庭で育てた花を持ってきていたが、俺は興味がなくて…。いつも受け取っていたのは兄だった」
「噂には聞いてたけど、殿下って本当にドライだよね。トーリ以外には」
「おまえが軽薄すぎるんだ」
窓辺にもたれかかったまま眉間を寄せて黙ってしまったアシェルを気を遣う様子もなく、マシューは肩をすくめながらソファーに腰を下ろした。
どれほどの時間が流れただろう。
「…ねぇ、殿下。一ついいかい?」
「なんだ」
「ボクの気のせいならいいんだけど」
「……気のせいじゃ、ないだろうな」
アシェルはようやく窓から視線を外すと足元に向かって舌打ちした。
「ミアがいない」
アシェルが訪れたとなれば間違いなく真っ先に飛んでくるであろうミアがいつまで経ってもやって来ない。
それはつまり彼女は今、この屋敷を空けているということだ。
「アリスに接触しに行ったか」
「いや、違うよ。たぶん彼女は今、――ゲイルシーゲル城だと思う」
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優雅にティーカップを傾けているのは、本来この城には近付けなくなったはずのミアだった。
「やっぱりこの城の紅茶は美味しいですわ。確かオリヴィア様が仕入れに関わっていらっしゃるのよね」
艷やかな明るい蜜柑色の髪と蕩けた蜂蜜のような瞳が、今はうっすらとくすんで見える。
しかしその所作は以前と変わらず、彼女はいつかの茶会の時のようにゆったりと微笑んだ。
「お飲みにならなくて?」
「お構いなく」
「まぁ。やはりあなたのような方のお口には合わないのかしら」
ざわり、とほんの微かに怒りを露わにしたのは桃里の後ろに控えたジュリアだった。しかし桃里が目配せすると彼女はぐっとそれを抑える。
「さすが殿下のメイドですわ、伯爵家のお茶会の時もですが…よく躾られてますこと」
砂糖とミルクのまろやかな甘い香りを纏いながらも、棘を隠しもせずに話しかけてくるミアに反して、桃里は組んだ足の上に両手を置いたままだ。
「あいにくアッシュは城を空けている。どこにいるかはおまえの方が知っているんじゃないか?」
「……そうね」
「まだ私が城に来た頃、刺すような視線を時々感じていた。よほど私が気に入らないらしい」
「………」
足を組み直した桃里は緩慢に首を傾けた。
「そんな私とわざわざ世間話をしにきたわけでもないだろ」
ティーカップに寄せていた淡い桃色の唇がぴくりと震えた。
「…ええ、そうですわね。あなたとお喋りしてもなにも楽しくありませんわ」
鈴を転がしたような可愛らしい声が、底冷えするように低くなる。それでも細い指先は音の一つも立てずにソーサーにカップを置いた。
「お互い様だな。ああ、だけどその前にひとつ、おまえに聞きたいことがある」
あくまで冷静に淡々と言葉を紡ぐ桃里を、暗く曇った瞳が髪の隙間からゆらりと見据える。
「なぜこの城に入れた?」
ついさっきまでほぼ一方的に話していたミアは黙したまま、しかしその眼光だけはゆっくりと獣のように鋭くなっていく。
「…やはり、大大将様の衣か」
ざわざわと、不穏な空気がミアの周りにまとわりついて溢れ出す。明るい髪を結っていたリボンが揺れた。
それは普段の彼女には似つかわしくない、薄汚れてくすんだ布が織り込まれている。
「あなた…邪魔なの……」
ゆらりとミアが立ち上がるのと同時だった。膠着していた空気を裂くように、部屋中の硝子が一斉に割れた。
激しい破壊音とともに、僅かに聞こえたのは部屋の外に控えていた晴人とセオドアの声だった。
しかし既に瘴気の結界に覆われた扉を開けることはできないのだろう。その声も徐々に聞こえなくなっていき、訪れたのは静寂だった。
「――邪魔なの、邪魔!邪魔邪魔邪魔!!」
狂ったように叫びながら髪を掻きむしるミアを前に、桃里は一切動じることなく、むしろ口角を釣り上げた。
「アッシュがいなくてよかったよ。おまえのこんな姿を見せなくて済んだ」
「それも!!殿下の愛称を気安く呼ぶな!!」
一際高い叫びをあげたミアの髪が針のように変化すると、目の前にいる桃里をめがけて一斉に飛んできた。
「桃里様!!」
咄嗟に桃里の前に飛び出したジュリアは、構えを取るより早く呪文を唱える。すると突風が吹き荒れて、針壁や家具に突き刺さった。
「…実際に見るのは初めてだけど、あれが鬼女か」
「桃里様!感心してないで!また来ます!」
庇われた背中からひょこっと顔を出して目を細める桃里に、ジュリアは叫びながら退路を探す。
「大丈夫、ジュリアは後ろへ」
「なりません!お逃げください!」
「大丈夫、だって私は――」
しかし桃里は至極冷静で、今度はジュリアを守るように一歩前に出る。その手には愛刀、夜霧三日月がしっかりと握られていた。
「本物だから」
ゆらりゆらり。重心の定まらない人形のように左右に揺れるミアのその乱れた髪の隙間から、細く短い歪な角が見えた。
「晴人の言ったとおり…醜悪な魂の成れの果てか」
左右非対称な歪な角に、薄い唇が裂けてしまいそうなほどの長い犬歯。瞳孔は縦に割れて、獣というよりは爬虫類のそれに近い。
美しく手入れされていた爪先は鋭く伸びて、まさしく鬼と表現するであろう姿だった。
「…おまえが如何に鬼に身をやつそうとも、所詮は人間」
憐れむように目を細めた桃里の髪も次第に紅く染まりはじめる。初めて目の当たりにしたジュリアが驚き息を呑むのが聞こえた。
「紛い物のおまえでは、私に傷一つ付けられはしない」
真紅の髪を靡かせて、桃里は流れるような所作で腰に手を回した。ベルトに鞘を差して構えを取る。
「鬼人の桃里、――参る」
神速の領域で抜き放たれた桃里の刀は、一切の迷いもなく白刃を走らせた。




