第87話 踏み出す一歩
既に真上にあるはずの太陽は朝から重い雲に遮られ、まだ昼間だというのに薄暗く、そして肌寒かった。
「――で?何でおまえが一緒にいる」
「そりゃあ、ボクが最有力情報者だからさ」
王都の南の領地を治めるエバンス公爵家に向かう馬車の中は、どんよりとした空模様もましに思えるほど重苦しくピリピリとした空気に包まれていた。
「もー、そんなに睨まないでよ。本当さ、シルフの女神に…いや、トーリに誓うよ」
「軽々しく桃里の名を呼ぶな、愚息」
「…殿下ってかなり口悪いよね」
車輪の音に混ざって届くアシェルとマシューの険悪な応酬を聞きながら、どうなることやらと御者席のイーニアスはこれからの先行きを思いわずかに溜息を吐いた。
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件の密会の翌日。桃里がアシェルの執務室を訪れたのは、陽もすっかり高くなった頃だった。
いささか目元は赤く見えるも、隈もなくすっきりとした顔をした桃里は今までより強い眼差しをしていた。
「よく眠れたようでよかった」
「うん」
寝不足などなかったような涼しい顔で、既に執務に取りかかっていたアシェルはペンを置いてその紅い瞳を見上げた。
「――それで、桃里はどうしたい?」
机の上に指を組んで問いかける。彼女はきっと、もう決めているのだろう。
まっすぐに見つめたまま、しかし急かすことはせずに桃里が口を開くのを待つ。
どれくらいの時間が流れただろう。それは一秒ほどだったかもしれないし、もっと長い時間だったかもしれない。
桃里はおもむろに結い上げていた髪を解くと、ふわりと微かな風が吹いて流れた髪が紅く染まった。
額には二本の艷やかな角。耳はこの大陸のどこかに住んでいると言われている伝説のエルフのように尖り、白磁の爪先は鋭く伸びている。
これが桃里の、もう一つの姿。
「私は鬼人だ。普通の人ではない」
「ああ」
「けれどアッシュは…みんなは、こんな私も受け入れてくれた」
「桃里は桃里だからな」
桃里の本質がただの人間ではないこと、魔法とは違う不思議な力を使うこと、なによりこの国の者ではないこと。それらすべてをアシェルは認めている。
「…だから――私は、戦いたい。みんなと、アッシュと一緒に」
一歩前に踏み出した桃里に、アシェルは満足そうに頷いた。
「桃里が力を貸してくれるなら心強いことこの上ないよ」
「…本当に?」
「うん?」
肯定の意を示したつもりが、桃里は何故か疑問符というか、むしろ完全に訝しんだようにたじろいだ。
「…正直、私はあまり役に立ててないというか…。自分の不甲斐なさに割とへこんでいたというか。井の中の蛙という言葉が身に沁みていたところで…」
「……は?」
先程までの気高く強気な姿はどこへ逃げて行ったのか、しおしおと萎んでいく赤毛がいつもの黒髪に戻りはじめる。
「…だって、私はいつもアッシュに助けられてばかりだ」
ぽつりと呟いたのを最後にそのまま俯いてしまった桃里に、アシェルはしばらく黙り込んでからふっと肩を震わせた。
「…アッシュ?」
急に黙りこくって顔を背けたアシェルに不安を感じたのか、おずおずと近寄ってきた桃里が顔を覗き込んでくる。
「…そんなこと」
「へ?」
ころころと表情を変える桃里に思わず緩んだ顔を引き締める。何がなんだかわからないのだろう、彼女はやはり目を白黒させていた。
「桃里」
アシェルは明らかに困惑している桃里の向かいに立つと、少し腰を屈めて彼女の視線に高さを合わせた。
「桃里の国では知らないかもしれないが、我がシルフィルドでは男が女性を支えるのは当然のことだ」
「そう、なのか。…そういえば城に来た頃イーニアスもそんなことを言っていたけど」
「ああ、だから」
自然と手が伸びて、少し熱い桃里の頬に触れる。その手が払い退けられることはなかった。
「そんなことを気にするな。むしろ本当に、俺の方がずっと君に助けられている」
「…嘘だ」
「本当だ。俺は――」
まだ疑っているのか胡乱な目で見上げてくる桃里に、そういう状況じゃないとわかっていても思わずぐらつく。
じっと見つめてくる桃里に吸い寄せられるように身をかがめ、つい言葉を滑らせそうになるのも一瞬。
「――アシェル殿下」
互いの唇が掠めそうになったその時、控えめなノックがそれを遮った。扉の向こうから聞こえたのはメイドの声だ。
「ブレイク伯爵家のマシュー様が謁見を賜っておられますが、如何致しましょうか?」
「…ああ、私が呼んだ。すぐに行く。イーニアスに先に行くよう伝えてくれ」
「かしこまりました」
遠ざかっていく足音を聞きながら、アシェルはふっと小さく息を吐いて桃里から一歩離れた。今のは少しばかり、いやかなり危なかったと、心の中でメイドに感謝する。
「――そういうことだ」
「ミアのところへ行くのか」
「ああ。屋敷にいるようだと昨夜ジュリアから報せがあった。多少危険はあるが、まずはあの薬のことを確かめないといけない」
気を抜いている場合ではないのだ。アシェルは机の上を片付けると、まだ佇んたままの桃里を振り返った。
「今回は桃里は連れていけない」
「わかってる。…無事に戻れ」
歯がゆそうに拳を握ったのは見ないふりをして、そっと桃里の肩に手を置く。するとぴょこんっと、小さな蜘蛛がアシェルの手の甲に飛び乗ってきた。
「サク。いたのか」
「うん。連れて行ってくれるか、私の代わりに」
「ん、助かるよ」
外出用のジャケットを羽織ったアシェルの胸ポケットに、朔月はするりと潜む(さすがは妖、サイズ感は変幻自在のようだ)。
「じゃあ行ってくるよ」
「気をつけて」
執務室をあとにして歩き出したアシェルは、廊下の角を曲がるまで背に桃里の視線を感じていた。




