第86話 扉越しの会話
秋の夜というのは存外に賑やかなもので、虫たちが奏でる声が風に乗って穏やかな音色を響かせている。
そんな平穏な夜更け、自室に戻った桃里は窓辺に佇み空を見上げた。
今夜はあいにくの曇り空で、薄い月は姿を隠してしまっている。
(…本音を言えば、自分は巻き込まれた側だと思っていた)
こちらに来ることになったのは単に父の気まぐれで、そこで起こった事件は偶然だと。自分たちはあくまで手を貸す側だと思っていた。
窓に映った紅い瞳が力なく揺れる。
驕っていたわけではない。良くしてくれたアシェルたちの力になりたいと思ったのもまた、本心だ。
それでもまさか自分の国や両親が事の元凶だったなんて。つゆにも思わなかったのだ。
(結局は私たちのせいで、アッシュたちはめちゃくちゃにされたんじゃないか)
額の辺りが熱くなる。薄々感じていた違和感や疑問は一気に解消したが、逆に思考がぐるぐるして定まらない。
いつの間にかすっかり慣れてしまった窓硝子に額を預けて、桃里は堅く目を閉じた。ひんやりとした硝子に熱が吸い取られていく感覚がした。
(桜に攫われていく…)
瞼の裏に浮かんだのはいつかの夢で見たあの光景。あの後ろ姿は母で、そしていなくなった。
まるで桜に攫われるように、そうして。
(九尾の元へ行ってしまった)
たったひとりで、桃里たちを置いて。
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桃里を追って彼女の部屋へと辿り着いたアシェルは小さく息を吐く。静かにノックをするも、やはり返事はない。
薄暗い廊下に佇み、考える。この扉の向こうで、彼女は今どんな顔をしているのか。
怒涛の勢いで様々な情報が露わになり、何より彼女にとって母親の件は一番辛い話になったのだ。もしかしたら疲れてもう眠っているかもしれない。
冷たい部屋の中でひとりきり。目の前にある厚い扉はまるで今の桃里の心のようで、アシェルはドアノブにかけようとした手を彷徨わせてから添えるように扉に触れた。
「桃里」
今日はもう帰って明日、改めて出直そうか。一瞬そんな考えも過ぎったが、気づけばアシェルは呟くように彼女の名前を呼んでいた。
「…そのままでいいから聞いてくれないか?」
返事はおろか身動ぎする音さえない。重厚な扉に遮られて気配も感じられなかった。
しかしなんとなく、ほとんど勘のようなものだったけれど、彼女はすぐそこにいる気がした。
「――俺は、とても感謝しているんだ」
冷たい扉に手のひらの熱が吸い取られていくのを感じながら、アシェルは選ぶようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「桃里が初めて空から降ってきた時は、正直とんでもない厄災が訪れたんじゃないかと思った。――でも」
あの日。青空を切り取るように突如現れた闇の裂け目から落ちてきた、得体のしれない少女に心がざわついたのは本当だった。
アシェルを目掛けてまっすぐに――正確には今も胸にあるこの勾玉を目印に――空から落ちてきた桃里。
「これを持っていたのが俺でよかったと、…俺の元に来てくれたのが君でよかったと思うんだ」
服の上から勾玉を握りしめながら囁いた声はほとんど吐息で、ろくに音にもなっていない。
窓の外から微かに聞こえる虫や風の音にさえかき消されてしまいそうな声は、彼女には届いてはいないかもしれない。届かなくてもいいと思った。
ただ今は彼女の傍にいることさえ伝わればそれでいいと、扉に額をつけながら震える睫毛をゆっくりと伏せた。その時だった。
きしっと扉の軋む音が聞こえた気がして、アシェルは僅かに体を浮かす。
毛足の長い絨毯が敷き詰められた床では足音も響かない。しかし。
「……本当か?」
すぐ近くで聞こえた声に、アシェルは小さく笑みを浮かべた。
「本当だ」
扉一枚を挟んだ向こう側にいる桃里に、今度はちゃんと届くように声に乗せる。
「…迷惑では、ないか?」
「迷惑なわけないだろう」
「……私は、ここにいて…いいのか?」
徐々に震えていく桃里の声に気づきながらも、アシェルは扉を暴くことはしなかった。安心させるように努めて柔らかく、ただ愛おしい存在に微笑みかける。
「いいに決まってる」
互いに表情が見えない今、自分の想いを伝えるには声音と言葉しかない。難しい問答も複雑な感情もいらない、ただせめてこの気持ちだけは伝わってほしい。
「桃里に出会えてよかったよ」
これまで自身の感情と表情に齟齬があると自覚していたアシェルは、精一杯の想いを乗せて言葉を紡ぐ。
一国を背負う王家の人間として、それは間違った選択かもしれない。しかし国を脅かすことになった元凶も経緯も、この夜だけは見ないふりをさせてほしい。
(もうこんなにも、君を好きになってしまったから)
ただ一人の人間として、アシェルとしての素直な想い。
長い長い沈黙のあと、消え入りそうな「ありがとう」が聞こえた気がしてアシェルは再び瞼を伏せる。
その言葉だけで十分だった。彼女が泣かないでいてくれるなら、少しでもこの場所に、自分の元に居場所を見出してくれるなら、アシェルにはもう十分だった。
それからしばらくして再びぽつりぽつりと話しはじめる桃里に、その場に腰を下ろしたアシェルは扉を背に相槌を打つ。
話の内容は他愛のないないものばかりで、中身なんて特にない。それはただ、そこにアシェルがいることを確かめているだけのようだった。
いつしか風の音も柔らかくなり、ついには虫たちも寝静まった静寂の中。
そのまま空が白みはじめるまで、二人はぽつぽつとした話を続けて、そして気付けばどちらともなく眠りについていた。




