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第85話 千年後、異国にて

 はっきりとは覚えていない。しかし似たような夢を幾度か見たことがある。


 それがいつで、どこなのかはわからない。ただなんとなく覚えているのは父の腕と、それに寄り添う、おそらく、母。


 あれはいつで、どこだったのだろう。


 花弁が舞い散る桜の中で、霞のように消えていく母の後ろ姿。その手に携えられていたのは夜霧三日月(やぎりみかづき)だった。




*******




「先程も話した通り、九尾は我々の国から一度は追われました。そして二度目に現れた時、暁緒様によってある場所に封じられた。…しかし今、その封印が破られかけている」

「つまりどういう方法かはわからないけれど、キュウビは桃里ちゃんのお母様より強い力で強引にシルフィルド(こちら)に現れたってことかい?」


 それまで黙ってそれぞれの資料を見ていたセオドアは、考えを整理するように声に出す。


「はい。向こうは百花様や大大将様たち、それに呪術師一族もいます。そう易々とは出られない。ならば別の方向から…。ここからは完全に推測ですが」


 途中まで流暢に述べていた晴人の歯切れが不意に悪くなる。それに気づいた桃里は、何かを察したような眼差しでアシェルを、否、アシェルの持つ勾玉を見た。


「…親父の妖力に反応したのか」

「……可能性の話です」


 本来、妖の存在しない国である【シルフィルド】を標的にしたのは、同じ妖の気配を察知したからではないか。そしてそこで見つけたのがセオドアの母、アリスだった。


「九尾は石にされ封印されたはず。空間を捻じ曲げることはできても、自ら表に出ることはまだできないと私は考えています」

「それでアリスを使ったということか」

「…ならアリスはキュウビの駒で、エバンス家もまたアリスを通じて駒にされているということかな」


 アシェルとセオドアはやはりまずはエバンス家から潰すしかないと暗黙の視線を交わした。


「利害が一致したんだろうね。アリスは…僕の産みの母は王族へ復讐したい、エバンス家は自身の地位を確立したい」

「まさか狐一匹に転がされているなんて、きっと思いもよらないのでしょう。アリスも…そしてエバンスも」


 エヴァは自らの過ちを悔いているのか、憂いの籠もった吐息を零した。


「…この一件、シルフの皆様を巻き込んだのは私たちの方です」


 しかしそれぞれの心境を察したように呟いたのは晴人で、先程までの荒々しさが抜け落ちた静かさでそっと席を立ったのは桃里だった。


「桃里?」

「…少しだけ、時間をくれ」


 俯けていた顔を少しだけ上げてアシェルへと視線を向けた桃里は、微かに瞳を揺らして一人部屋を後にする。


「桃里!」


 思わず後を追おうと立ち上がったアシェルにセオドアは何も言わずに頷いた。


 今、彼女を一人にしてはいけない。直感的にそう感じた。




*******




 朝も昼もない、時間の流れもない場所だった。


 太陽の暖かさも、雨の冷たさも、風の匂いも、土の感触も、すべてが遠い記憶になっている。


 思い出すことすら億劫になるほど、此処には何もない。唯一あるとしたら、それは闇。


 思えばそれだけは長い付き合いだった。もう千年、彼(・)女(・)は光と言うものを見ていなかった。


 薄暗い洞穴の奥で、獣は身を丸めた。丸めたつもりだった。しかし岩のように固まった体はギシギシと不快な音を立てるだけでぴくりとも動くことはない。


――忌々しい。


 幸い力は完全には奪われてはいない。体は動かせずとも決まった相手ならば意思の疎通も、わずかな時間であれば妖気を固めて姿を現すこともできた。


――だが、まだだ。


 この場所で目覚めてから、忌まわしき妖気だけを追い続けて繋がったのがこの場所だった。


 そこで見つけた人間の女。その女を使って雀の涙程度だが負の力を集めた。おかげで一つしか繋げられなかった穴を複数の場所に繋ぐことができるようになった。


 しかしまだ、この岩のような結界を破るには至っていない。


――もっとだ。もっと強い力がいる。


 あの鬼の妖気と、女の霊気がここに来て強くなっている。あれは一体なんなのか。


――だが一つだけ、はっきりとわかる。


 ギギッとまた不快な音が鳴る。強引に持ち上げた口角からボロボロと欠けた岩が剥がれて落ちた。


――あれを喰えば、吾は戻れる。


 獣は窪んだ眼窩を歪ませて、まるで笑うように瘴気を吐き出す。


 腹が減って堪らない。この空腹を満たすためには、もっと大きな力がいる。


 憎悪や苦痛なんて生易しいものではない。裂けた肉からしたたる血にまみれ、恐怖と苦痛と屈辱に支配された高潔な魂。


 自分をこんな目に合わせたあの女に似た気配。ああ、なんと素晴らしい。


――柔な、彼の肉を、肝を、力を、早く、吾に。


 想像するだけで唾液が垂れて口が歪む。実際はそれさえもままならない身だと理解していても、漏れる声は抑えられない。


 くつくつくつと、乾ききった喉が鳴った。


 アァ、喉が、乾く。乾く。早く、来い。


――喰らいたい。


 眼球が抜け落ち窪んだ眼窩で、欲望と殺意だけが笑っていた。

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