第84話 千年前、神の国より
「――まず。私たちがこの国へ来た道を開いたのは、お嬢の母親です。彼女は強い霊力の持ち主で、高度な術をいくつも会得していました」
晴人にしては珍しくどこから話すべきか思案する間は、とても長かったようにも一瞬のことのようにも思えた。
「この術は決められた媒体を通じて空間を捻じ曲げるもので、…同じような術は若様も使えますね」
「ああ。だが俺の魔法で行き来できるのはせいぜいこの国の中くらいでさすがに海を超えるほどの距離は無理だ」
アシェルは同意を示しながら隣に座る母へと視線を向ける。するとエヴァもまた首を横に振った。
「試したことはないですが、例え私の力でもよくて隣国まででしょう。アキオほどの才覚はどうやらなかったようです」
「あれは暁緒様の力だけではありません。あの術はそれがあってこそでした」
そう言って晴人が示したのはアシェルの胸元だ。そこにある物を察したアシェルはシャツの下からペンダントを取り出す。
「媒体…そうか、これが」
アシェルの首に下げられているのは濃い紅色をした勾玉。紐は桃里が新たに組み替えたものだが、元々はハロルドが持ち帰った刀についていた飾り紐だった。
「ええ。それはお館様…百花様の妖力の塊です。暁緒様の術は、遠く海を超えた百花様の妖力なくして完成し得なかった」
僅かに目を細めた桃里を一瞥して、晴人は更に話を続ける。
「私はその道を守る役目を使わされていました。時が来たら結界を開き、お嬢を国の外へ逃がすように、と」
「――やっぱり…そうなんだな」
薄々感じていたのだろう、桃里は感情を露わにすることなく悟ったように目を閉じる。「続けろ」と、短く告げる桃里の言葉に晴人はゆっくりと頷いた。
「先程も言ったとおり、これは並の術ではありません。一族の中でも暁緒様以外に使える者はいないでしょう。しかし…」
テーブルの上に広げられた品の中からひとつ、紙の上に乗せられた金色の毛をとんっと指した。
「こいつは別格です」
一見には髪のような長い毛は人の物でも、ましてや獣のものでもない。これは災厄と呼ばれた大妖怪、九尾の狐の残したものだ。
「そのキュウビの力というのは実際如何ほどのものなのですか。桃里様が言うに村一つ飲み込むのも容易いと」
「村どころか、かつては大陸一つを飲み込んだと聞き及んでいます」
話を遮るように唐突に、ドンッと強い音がして反射的に全員の視線がそこへと集まる。テーブルを叩いたのは桃里で、彼女は俯いたまま拳を震わせていた。
「…奴の強さは今はどうでもいい!…なぜその九尾がこの国へ来たかだ!」
聞いたこともない桃里の怒声に、アシェルは僅かに目を見張る。
「そいつがなぜ、此処に来た。動機はなんだ…!?単なる気まぐれか!?そもそもなぜ、…っ父と母は私をシルフィルドへ逃した!?」
徐々に上擦りそうになる声を必死で抑えこもうとしているのだろう、更に強く握りしめられた拳が白らんでいくのが酷く痛々しく見えた。
「話が逸れます、それはまた後日でも」
「今の話をしているんだ」
それでもなおはぐらかそうとする晴人を怒りの滲んだ真紅の眼が睨みつける。しかし晴人は臆することなく熟考するように目を伏せてから、ようやく細く長い息を吐いた。
「…聞いて、それでどうすると言うのです?」
「できることをするしかない」
即答する桃里に対して、晴人は更に問いかける。
「できることなど、ないかもしれません」
「それでも…!私には聞く権利と、義務がある」
アシェルの脳裏に北の国で聞いた話が蘇る。あの時晴人は桃里には伏せてほしいと言っていた。それはあくまで彼女を護るためのこと。
「聞いてしまえば、もう逃げられませんよ」
「……逃げ場なんて、どこにある」
しかし今、桃里はそれを望んではいない。吐き捨てるような口調なのに、どこか悲痛を隠した響きに聞こえた。
「晴人、話してくれ…」
懇願する桃里の眼差しに、ついに根負けしたのは晴人の方だった。
「わかりました。…ですが、お嬢には少し辛い話になりますよ」
「腹は括った」
それでもまだ渋る様子を見せた晴人だったが、逡巡の後、ぽつりぽつりと話し始めた。
「千年前、一度は我らの国を追われた九尾が、長い時を経て再び我らの国に現れたのはおよそ十五年前。――お嬢が産まれて間もなくのことでした」
桃里が産まれ、ようやく歩きはじめた頃に、その災厄はやってきた。
初めて聞く話に桃里は黙ったまま相槌すら打たずにただじっと晴人を見つめている。そんな桃里の代わりに問いを投げたのはエヴァだった。
「…一度は呪術師に国を追われたというのに、なぜまたキュウビはあなたたちの国に現れたのです?」
「それはおそらく、千年前の呪術師たちに奪われたものを取り戻しにきたのかと」
「奪われたもの?」
桃里だけではなくその場にいた者たちの視線が晴人に向けていた。
「己の両眼です。古の呪術師たちは数多の犠牲を出しながらも、辛うじてその眼を奪い、怯んだ九尾を国から追い払ったと聞いています」
「その眼は今どこにあるのですか?」
何かを知っているようにも思えるエヴァの問いかけに、晴人は冷静に言葉を選ぶように口を開く。
「…国の都。一族の拠点となる大都に封印されていると、…暁緒様はおっしゃっていました」
呪術師一族、それはすなわち暁緒のいた一族だった。エヴァは睫毛を伏せてそれきり形のいい唇を結んでしまう。
「…そういうことか」
ぽつりと呟いた桃里の瞳は、今まで見たこともないくらい暗く、憂いの色を含んでいた。
「千年の時を経て二度目に現れた九尾。その九尾と戦ったのが…母だったんだな」
腰に帯びていた刀を撫でて、それきり口をつぐんでしまった桃里に晴人は僅かに目を細め、しかしすぐに顔を上げると改めて他の者へ視線を向けた。
「続きをお話しましょう」
夜はまだ、昏い。




