第82話 芽生えの春風
羽を伸ばすと言ってもさすがにこの状況で城の外へ出ることは憚られ、二人が訪れたのは今は無人になった禁苑だった。
「久々に来たけど、此処は本当に不思議なところだ」
ハロルドの書斎から通じるこの禁苑は魔法で作られた特殊な場所で、まるで常春のように晴れやかな空と暖かな風が季節を問わずに吹いている。
日々オリヴィアが世話をしていた広い庭園は、しばらくその手が遠退いてしまっているが以前のように荒れ果てることはなく、変わらず豊かなままだった。
「あー、いい天気だ」
柔らかな芝生に大の字になった桃里の隣に腰を降ろしたアシェルは、彼女と同じく空を見上げた。
生き物こそいないが本物と見まごう、いや、もしかすると本当にどこかにあるのかもしれない広い空は、雲一つなく心の澱も消し去るようだ。
「桃里」
「なんだ?」
空から視線を外すことなく応える桃里は、いつの間にかアシェルにはとても心地良い存在になっていた。
「この遠征の間、最北まで行って俺は色々考えさせられたんだ」
「そうか」
自分の家族のこと、桃里の家族のこと、今この国に起こっている異変。それと同時に桃里の国でも起こっているであろう変事、そしてそれらにエバンス公爵家が噛んでいること。何一つまだ繋がってはいない。
「まだ何もわからないけれど、一つだけわかったことがある」
アシェルは静かに目を伏せる。長い睫毛が日差しを受けて影を落とした。
「俺は、桃里が元気で、笑っていてくれればそれでいい」
離れている間にも頭を過るのは彼女のことで、孤児院に化物が現れたと聞けばいてもたってもいられなかった。
「だから…」
伏せていた瞼をゆっくりと持ち上げる。ちゃんと彼女の顔を見て言いたい言葉があった。
しかし開いた双眸に飛び込んできたのはあまりにも近すぎる桃里の顔だった。
「ッ…!?」
いつの間に起き上がっていたのか、視界いっぱいに写った瞳はまっすぐにアシェルを見つめてきて、思わず頭に血が上りそうになる。
「…アッシュ」
「な、なんだ」
にじりよってくる桃里につい後退るという状況に、何だか既視感を覚えて背後を振り返る。
そこに広がっているのはもちろん豊かな芝生だけで、海の時のように落ちるようなことはない。
つまり、逃げ道がない。
「…おまえ、疲れてるんだろう」
「は?」
いつになく真剣な眼差しで告げるやいなや、桃里はアシェルの腕を引っ張った。
「へっ……」
急に傾いた姿勢では受け身を取る余裕もなかった。
咄嗟に目を瞑るも思っていた衝撃はいつまで経っても訪れず、おずおずと薄く瞼を開くと今度は桃里の顔が真上にあった。
「隈ができてる。リヴィたちが心配でどうせろくに寝てなかったんだろ?」
「いや…それは、まぁそうだが…」
いわゆる膝枕という状態だ。固まってしまっているアシェルの髪を白い手がするりと梳いた。
「成人祭のあと、こうして母上様がしてくれたんだ。とても気持ちよくて、安心して…いつの間にか眠ってしまった」
いつもと違いどこか慈しむような柔らかさで笑った桃里にアシェルは思わず目を見張る。
「私は母を知らないから。母とはこういうものなのかもしれないと思った」
「…そう、か」
ブレイク伯爵家で聞いた桃里の母親の話。まだ幼い桃里を残して一人戦いに向かった強い女性。
彼女はきっと今の桃里によく似ているのだろう。
アシェルは複雑な感情を胸に秘めたまま次第に訪れる睡魔に抗うことができず、温かい手のひらに身を委ねてそっと意識を手放した。
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朝も夜もない禁苑では空が変化することもない。
今が何時か、もうどれくらいこうしているかわからなくなった頃、小さく洩れた声に視線を落とした。
白い肌にはっきりとした目鼻立ち。今は伏せられてしまっているが見る人を惹き付ける青い瞳と、美しい金糸の髪。
桃里の目から見ても普段は大人っぽく涼やかに映るアシェルでも、寝顔は存外に幼く見えるから不思議だ。
「…アッシュ?」
よほど疲れていたのだろう。それまで静かに寝息を立てていたアシェルは桃里の声に反応したのか微かに眉根を寄せてむずがると、寝返りをうって顔を腹に埋めてきた。
「なんだ、寝ぼけただ、けっ……!?」
微笑ましく思いもう少し寝かしてやろうと髪を撫でようとした瞬間、不意に伸びてきた腕が桃里の体に巻きついてそのまま芝生に倒れ込んだ。
「っ…アッシュ…!」
起きていたのか。さてはこれはさっきの仕返しだなともがいてみるも、しっかりと絡んだ腕は抜け出すことを許してくれない。
「アッシュ、おい、おまえ起きて…」
辛うじて自由だった顔を押し付けられる胸から上げると、思ったより近くにアシェルの顔があった。
(な、なな…)
見上げる角度でも長くて多い睫毛がしっかり見える。どこからどう見ても整った顔が至近距離にある。別に初めて見たわけでもない、むしろさっきもまじまじと見つめたくらいだ。
なのに何故だろう。急に熱くなる頬と早くなる鼓動に、熱でも出たのかと額を触れようとするも腕が上がらずそれもできない。
「…っアッシュ」
自分でも思った以上に情けない声が出た。
「ん……」
耳元で聞こえた返事に起きてくれたのかと一抹の希望を抱くも虚しく、アシェルの腕はまるであやすようにぽんぽんと背中を叩いてくるだけで目覚めた様子は欠片もなかった。
「っ〜〜〜!」
誰と勘違いしてるのか。起きたら絶対に伸してやると心に決めて、桃里は諦めてアシェルの胸に熱い頬を押し付けた。
体が熱くて動悸もする。もしかしたら本当に体調不良かもしれないのだ。こうなったらもう不貞寝するしか桃里に選べる手段はなかった。
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(ここ、どこだっけ…)
すうすうと聞こえる寝息を疑問に思ったのは意識が浮上してしばらくのことだった。
瞼の裏からもわかる明るい陽射し。頬を撫でる暖かい風。そして腕の中にある熱すぎるほどの体温。自分のものではない鼓動。
それからうっすらと漂う白檀の香り。
「うわっ…!?」
そこでようやく覚醒したアシェルは勢いのままに上体を起こした。腕を引き抜かれ芝生に投げ出されたその人は不機嫌そうに呻いて身をよじる。
「んんっ…」
恐る恐る、視線を落とす。
「……桃里?」
彼女以外にいるはずがないのだが確認するように呟くと睫毛が震えてゆっくりと持ち上がり、そしてまだぼんやりとした紅い瞳がアシェルを捉えた。
「おまえ……」
「あ、ああ……」
寝ぼけ眼が徐々に焦点を結んでいくと、まるで何かを見定めるように細められる。絶対に怒られる。
この状況を見れば怒られるようなことをした自覚はさすがにしっかりとある。アシェルは覚悟を決めて項垂れた。
「…ん、よく眠れたみたいだ」
しかし伸びてきた手は目元を掠めていくだけで再びぱたんと芝生に落ちた。
「…アッシュが眠れたなら、もうそれでいいよ」
ごろん背中を向けてしまった桃里を驚いた顔で見下ろしたアシェルは、それまでの罪悪感も忘れるほどにやはり愛おしいと感じてしまった。
「桃里」
本当に伝えたい一言は言えないけれど。
「…ありがとう」
そっと背けられた黒髪に手を添える。ふわふわとした黒髪を撫でてもこちらを向いてはくれないが、今はこのにやけ顔を見られなくてよかったとアシェルは密かに思う。
柔らかく穏やかな春風が、ただ二人を包んでいた。




