第80話 ぱぱとまま?
下働きの者たちが目覚めはじめた、まだ陽も昇り切らない時間。薄暗い城の廊下に疾走するひとつの影がひとつあった。
プラチナブロンドが乱れることも気にすることなく、下を走り抜けて訪れたのは、普段から人払いをしている客間の一画。早朝もあいまって幸いにも誰にも会わずに辿り着くことができた。
部屋の前でひと呼吸おく余裕もなければ、まだ眠っているかもしれないこと。そもそもノックもなしに女性の部屋に入る無礼も構わずに、アシェルは勢いのまま扉を開く。
「桃里!」
「――!!」
仄かな灯りが揺れる室内で驚いた顔をして振り返ったのは、ソファーにちょこんと座るまだ幼い黒い髪の少年だった。
「…え、誰だ?」
*******
エヴァの魔法で作られた魔鳥がアシェルを目指して飛び込んできてから、事が動いたのは一瞬だった。
城から火急の報せが届いたのはブレイク伯爵邸でハロルドたちとの密会を済ませた翌朝のことだ。
その報せを聞くや否や、北の果てにいたアシェルは静止の声も聞かずにブレイク伯爵卿の屋敷から自室へと強引に転送魔法を繋いで戻ってきた。
さすがにこれほどの長距離の移動は初めてだ。一気に力を使ったせいか僅かに目眩を覚えたが、そんなことを気にする暇はなく、アシェルは桃里の部屋に飛び込んでいた。
「――えっと…」
しかしそこにいたのは見覚えない少年で、アシェルはそれまでの勢いが嘘のように困惑して固まった。
「…………」
零れそうなほど大きな青い目を瞬かせじっと見つめてくる少年は、おそらくまだ三つにもならない年の頃だろう。
しばらく無言で見つめあっていると少年はぴょこんっとソファーから飛び降りて、短い黒髪をふわふわと揺らしてアシェルの足元に寄ってきた。
そして。
「ぱーぱ」
「ぱ!?」
この子供は今何と言ったのか。
聞き間違いでなければパパ…いや、そんなはずはない。この城にあって親のことをパパなどと庶民の使う言葉で呼ぶ者はいない。
いや今はそこじゃない。それ以前にそもそもこの子供は誰なのか。なぜ桃里の部屋にいる。ここは桃里の部屋のはずだ。何度も通って間違えるわけがない。というかここは生まれ育った自分の城だ。隅々まで熟知している。ならこの子供はいったい。
「…うるさいぞ朔月、まだ外も暗い……」
嬉しそうに脚に抱きついたり回ったりしている子供を見下ろしぐるぐる考え込んでいると、かちゃりと奥の寝室から扉が開く音がする。
出てきたのはまだ瞼もろくに開かないまま、ぼさぼさの髪を掻き混ぜながら大きなあくびを零す桃里だった。
「桃里!」
「まま!」
寝ぼけたままの桃里に先に駆け寄ったのは子供の方だった。
丈の長い寝間着の裾に飛びついた子供を抱き止めた桃里は「ままじゃないだろ、桃里」「とーり!」などと、まるでアシェルの存在などないかのようなやり取りを続けている。
「…桃里」
そんな二人を眺めてしばし、蚊帳の外だったアシェルがやっとの思いでもう名前を呼ぶと、桃里はようやく顔を上げた。
「…アッシュ、なのか?本当に。夢じゃなくて?」
「ゆ、夢なわけあるか!」
「いやだって、でもどうしてここに」
「話はあとだ!」
金縛りから解かれたようにアシェルは桃里の元へ歩み寄ると両肩にそっと手を添える。
「怪我は…ないのか?」
「うん?ああ、見ての通りに?」
「そうか…よかった。巨大な化物と戦ったと聞いてまた大怪我をしたんじゃないかと」
「またとは心外だな」
伝言を人の言葉で運ぶことのできる魔鳥はそれだけで非常に高度な技術だ。
手紙よりも早く伝えることができ戦場などでは重宝されるものだったが、その性質上、覚えさせられる言葉は限られてどうしても要約したものになってしまう。
本人を前にしてようやく安堵して眉を下げたアシェルはそのまま桃里を抱きしめた。
寝起きのせいかまだ少し高く感じる体温が胸に広がり、不安と焦りに冷えていた心を少しずつ溶かしていく。
「本当に…よかった……」
「…心配かけてごめん。それに、アッシュも無事でよかった」
深い息を吐きながらしばらく抱きしめたままでいると、そっと背中に熱い手のひらが触れた。
そこで自分の行動に気がついたアシェルははっと目を見開いて、慌てて離した両手をそのまま顔の横に上げる。
「すまない!つい!」
「何がだ?」
「いや、なにがって…ん?」
心底不思議そうな顔で小首を傾げる桃里に何度目かの動揺していると、視界の隅をぴょんぴょんと何かが掠めてきて視線を落とす。
見ればすっかり忘れていた子供がアシェルに向かって両腕を伸ばして跳ねていた。
「なんだ、おまえも抱っこしてほしいのか」
「え」
「よいしょ」
桃里に背中から抱き上げられた子供がアシェルの顔の高さまで持ち上げられる。
近くで見ると更に深い青が印象的な瞳に、柔らかそうな黒い髪。ぺたりとアシェルの頬に触れた小さな手のひらはやはり子供らしくふわふわとしていた。
「桃里…その、この子供は…」
「件の化物だ」
「…なっ!?」
悪戯っぽく笑いながら渡された子供を反射的に受け取ると、ふくふくと柔らかい頬がくっついてくる。もっちりとしたその幼児は、とてもじゃないが化物には見えなかった。
「積もる話もある。着替えてくるから少し待ってて」
「あ、ああ」
聞きたいこと、話したいことは確かに山ほどある。しかしまだ暗いうちに押しかけた上に部屋に上がりこむなど不躾もいいところだ。
腕の中でにこにこと笑う子供を見下ろしてとりあえずアシェルはソファー腰を下ろした。
(それにしてもこの子供…)
心なしか桃里と、そして自分に似ているような気がしなくもない。
寝室へ引っ込んだ桃里を待ちながら、アシェルはどうにも落ち着かない気分のまま居心地悪く視線を彷徨わせていた。
四章完結しました!まだまだ道半ばな桃里とアシェルをこれからもよろしくお願いします。マシューと朔月も応援してもらえたら嬉しいです。




