第79話 因縁の輪
マシューの生家であるブレイク伯爵家は情報収集に長けた一族で、その腕を買われて今は国境である最北の辺境にあえて家を構えている。
そして王都の北側にある別宅に住むマシューもまた、ブレイク家の人間であることに変わりはなかったよう。
なんと彼は約束の期限までに持てるすべての力を使って朔月を化物へと変えた呪いの出どころを探してきた。
「ここがその商人のいる場所か?」
「商人と言っていいのかはわからないけど、部下の調べでは少し前、ここに令嬢が訪れたと言っていた」
「その情報は確かなのですか?」
とても商売ができるとは思えない廃墟を警戒するように見つめながらイーニアスは訝しむ。
「エバンス家のメイドが時々、エバンス卿やミス・ミアが人目を気にして出ていくのを目撃している。更にそこから足取りを探らせて、行き着いたのが此処だった」
もう何日も前の話だ。正確な情報を期待する方が無理な話だということは桃里も理解していた。
それでもミア・ローズ・エバンスが関係していること、そして桃里を狙っていることだけは確かだ。
「人の気配はないようですが…」
「入ってみよう」
「お待ちください桃里様」
今にも崩れそうな廃屋に躊躇いなく歩き出した桃里を引き止めたイーニアスは、剣に手をかけながら一歩前へ出た。
「大丈夫のようです」
目を細めて割れた窓から中を覗き、建て付けの悪い扉を開いたイーニアスは、それでも警戒を緩めることなくゆっくりと室内に踏み出しようやく桃里を室内へと迎え入れる。
「…本当にぼろぼろだな。人どころか獣や妖の気配もない」
「家具はそのままのようですが生活道具などは何ひとつ残されていません。どうやら見たとおり空き家になってからずいぶんと経つようです」
埃を被った机や棚もかなり痛んでいるようで、やはり商売をしていたとは思えない。つまりここはただの取引場所として選ばれただけのようだった。
「…まさか、空振り?」
「かもしれないな。でもその都度、場所を変えているのだとしたらそれはおまえのせいじゃない」
自分の情報が間違っていたのかと慌てるマシューを前に、桃里とイーニアスは何か手がかりは残されていないかと室内をくまなく探し回った。
「ボクのせいじゃないって言っても…さすがにここまで来て何もないなんてのはあんまりじゃ……ん?」
ぼやきながら戸棚付近を雑に漁っていたマシューはふと足元で朔月が床を引っ掻いていることに気がついた。
目を凝らしながら覗き込むと、僅かに埃が薄くなった足跡なようなものがある。その板の間の隙間に何かあるのか、とりあえず膝を折ってみる。
さすがに慣れてきた朔月を片手で脇に寄せてから板の目に挟まるそれをおそるおそる指でつまみあげると、それは金色の長い一本の毛だった。
人間の髪の毛にしては硬くて太く、獣の毛にしては長いそれをまじまじと見つめながらマシューは桃里に声をかけた。
「ねぇ、これなんだろう?」
指先で摘んだ毛を掲げてみせると振り返った桃里は、双眸を細めてからはっと瞠目する。
「どこにあった!?」
「え、いやここの床に落ちてた。サクヅキが引っ掻いてたから…」
「貸せ!」
ひったくるように奪い取ったそれを眼前に険しい顔をした桃里の隣にイーニアスが並んで覗き込む。
「繊維の類でもなさそうですが」
「…これは狐の毛だ」
「狐?確かに狐は長毛ですがこれほど長くはないのでは?」
桃里の手から肘にかけてほどの長さがある毛はとてもじゃないが狐のものとは思えない。
「そうだよトーリ、こんなに長い毛の狐なんて、こんなに大きいってことじゃないか」
さすがに冗談だと思ったのか大仰に両腕を広げてみせるマシューに、桃里は緊張したように微かに詰まったような息を吐く。
「そんなものじゃない。こいつは」
傾き始めた赤い日差しが反射する窓の方に狐の毛を掲げた桃里は、外に広がる景色を目だけで指して声を低くした。
「村ひとつ簡単に飲み込むほどの大狐。おそらく、――九尾だ」
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「来た」
青々と茂っていた尾根は腐ったように赤黒く色を変え、立派な木々は一本、また一本と倒れていく。
「…このままでは山が、深山様が死に絶えてしまう」
女は紅い鳥居の向こうに広がる山々を見つめながら、ぐっと手にしていた刀を握りしめた。
「…本当に行くのか」
「…ええ」
背後からかけられた少しぶっきらぼうで低い、それでいて優しい声に振り返る。
そこに立っていたのは真紅の髪を惜しみなく靡かせた美しい一匹の鬼。その腕にはまだ幼い、ようやく歩きだしたばかりの愛おしい娘の姿。
「これは代々我が家の宿命。魔が蔓延りし刻、それを治めるのが御剣家の仕事。…――けれど、百花」
後ろ髪を引かれたように鬼に傍寄った女は頭をそっとその肩に寄せて、すやすやと眠る娘の頬に手を添えた。
「この子と、みんなをお願い」
「…ああ」
「百花」
「…わかっている」
太い腕が女の背を抱き寄せる。少し苦しかったのか、二人の間に挟まれた幼子がふえっと小さな鳴き声を上げた。
「桃里とこの里は俺が護る。だからおまえは…必ず帰ってこい」
「……うん」
もう間もなくあれがやってくる。山を腐らせ、生きとし活けるすべてを死へと誘う災厄の妖。
「大丈夫よ、百花。わたしは強いもの。なんてったって深山の鬼嫁なんだから」
腕の中にすっぽりと収まるほど小さく細い体は少しでも力を入れたら折れてしまいそうだというのに、女は口角を持ち上げていつもと同じように明るく笑う。
「だからね。この子もきっと、強くなるわ」
「鬼の子だからな」
「わたしの子よ」
ふっと、どちらともなく笑い出すと挟まれた幼子がうああんとついに泣きはじめた。
どこにそんな力があるのかと思うほど大きな声でわんわんと泣く幼子は生命力の塊のようで、同時に未来への光のようだ。
「桃里」
あまりに泣き続けるのを見かねたのか女は腕の中から幼子を取り上げて、慈しむように背を優しく叩いてあやす。するとそれまで泣いていたのが嘘のようにぴたりと泣き止み、今度はきゃっきゃと笑い出す。
「可愛い子…可愛い可愛い…わたしたちの娘……」
ぽたりと頬に雫が落ちる。幼子はきょとんと目を丸めて女の顔を見つめていた。
「お母さん、がんばるからね」
我が子との別れを惜しむように頬を擦り寄せ涙を流す女を、何もできない無力感を堪えるようにもう一度抱き締めた。
「…さあ、もう…行かなきゃ」
腕の中から愛おしい温もりが抜け落ちると、代わりに幼子を預けられる。
「暁緒」
母を求めて伸ばされた小さな手を遮るように握りしめたのは、思わず引き止めてしまいそうになる自分の手を封じるためだった。
振り返ることなく歩き出した女の背は、やはりあまりにも小さくて。
千年もの永きに渡り生きてきながら、たった一人の女の代わりにすらなれない。
鬼は残された幼子を抱きながら、あまりにも不甲斐なく愚かな自身を呪っていた。




