第78話 幼き記憶
彼に出会ったのは七歳の冬の終わりで、その年は王都にしては珍しい豪雪だった。
しかしそんな寒さも吹き飛ばすほど、その日のミアはいつになく浮ついていた。
公爵令嬢として初めて城での茶会に招待されたミアは、年相応の憧れと緊張がない交ぜになった気持ちを抱えて、少し背の高い少年を見上げた。
「はじめまして。僕はセオドア・ド・シルフ。よろしくね」
「は、初めてお目にかかります、ミア・ローズ・エバンスです…」
「そんなに緊張しないで、って言っても難しいよね」
穏やかな声音で微笑みながら手をとったのは、この国の第一王子のセオドアだ。
柔らかいミルクティーブラウンの髪に優しい輝きを含んだアメジストの瞳。まだ幼いミアにとって五つ年上のセオドアはとても頼もしく、安心感のある少年だった。
「ほら、アッシュも」
挨拶も済ませようやく少し緊張を解いたミアの方に、セオドアは自分の背中に隠れていた小さな手を引っ張り前へと押しやった。
絹のようなプラチナブロンドの髪を風に靡かせた少年は、ゆっくりとミアへと視線を向けた。
「っ………」
思わず息を呑んだほどに、少年は美しかった。
射抜くような真っ直ぐな視線はまるで雪解け前の冬を思わせるほど冷たくて、氷のようなアイスブルーは揺れることもなく澄んでいた。
「アッシュ、睨まない」
「…睨んだわけじゃない」
「まったく、君って子は。ごめんね、ミア。弟は少し人見知りで」
セオドアの言葉は耳に入ってこなかった。底の見えない湖に吸い込まれてしまったように、ミアはアシェルを見つめていた。
「ミア?」
「あっ…ごめんなさ、きゃっ…!」
ようやく我に返って後退ると、その拍子に靴の踵が地面にひっかかり体が後ろに傾いた。
バランスを取る間もなく、このままでは頭を打ち付けてしまう。
そう思い目を閉じた瞬間、ぐいっと強い力に引き寄せられて温かい何かに顔が埋まる。ほんのりとミントの香りが鼻孔を微かにくすぐった。
「――大丈夫?」
すぐ近くで聞こえた声に慌てて顔を上げると先程よりもずっと近く、鼻先がぶつかりそうな距離に青い瞳があった。
「だっ、大丈夫っ、ですっ!」
あまりの近さに動揺してばたばたと腕を振ると、存外あっさりとアシェルの手は解けてしまい、支えをなくしたミアは結局したたかに尻もちをついてしまう。
「ミア!大丈夫かい」
「…だいじょうぶ、です……」
「よかった。さぁ、立てる?」
鈍い痛みと恥ずかしさに真っ赤になって俯くミアに、セオドアの手が差し出された。
その手をとってなんとか立ち上がると、まだ下を向いたまま視線だけでちらりとアシェルを見やってスカートを払う。
「…あの、ありがとう、ございます」
慌てふためくミアと違いアシェルの瞳はやはり一切揺れることもなく、淡々とした声で「どういたしまして」呟いたきり彼が口を開くことはなかった。
結局その日はセオドアと話をしただけで同席していたアシェルは無言のまま、時折紅茶を傾けてはつまらなさそうな顔で雪化粧を施した庭を眺めていた。
あれから何度も城での茶会や社交会に足を運んでいたが、必ず顔を出しているセオドアとは違いアシェルは時々しか来ることがなく、来ても相変わらずの様子だった。
そうしている内にいくつもの季節が流れていく。
その間にもアシェルの話はメイドたちの噂話としてミアの耳に自然と入ってきた。
それは以前からあったことだが、王宮にあまり興味のなかった頃のミアには届いていなかった。
今になって聞き耳を立ててしまう己のはしたなさに、初めは嫌悪したほどだ。
「聞いた?第二王子様の話」
「またなの?」
「ええ、今度の家庭教師は三日で逃げ出したらしいわよ。城に出入りしている庭師見習いのクレアが言ってたの」
「ちょっと、大丈夫なの?その見習い…」
「ああ、もう王都にはいないらしいわ」
あまりにも当然のことだった。王宮に限らず、仕えている家の話を外に言いふらすような人間は信用が置けない。
とはいえ娯楽の少ない使用人たちのほとんどはそういう話が好きなものである。
(アシェル様、また追い出しちゃったんだ)
氷の王子。
いつしかそう呼ばれるようになっていたアシェルは魔法に長けて頭もよかったが、兄のセオドアとは対照的で無表情な上に気難しく扱いづらい子供というのが使用人たちの認識だった。
(本当はとても優しい方なのに。けれど、それを知っているのはわたくしだけなの)
初めて出会った時。危うく怪我をしそうになったミアを救い上げてくれた優しい手に、温かい体温。
あの人の心を知っているのは自分だけなのだと、ミアはいつしか自負するようになっていた。
しかし、それも長くは続かなかった。
セオドアの十五回目の誕生日を来月に控えたある日、ミアは父に呼び出されて応接室へと向かう。そこにいたのは王宮からの使者だった。
その時の話はほとんど覚えていない。
使者が持ってきた書状の内容は、ミアをセオドアの妃候補にするというものだった。
涙を流して喜ぶ両親を前に、ゆったりと微笑んだミアの心はいつか見た雪よりも重く、そして冷え切っていた。
*******
まだミアが幼いこともありすぐさま婚約とはいかずあくまで妃候補という形で話は進み、初夏に迎えたセオドアの十五回目の誕生パーティー当日。
ミアにとっては婚約の話以上にショックなことがあった。
「アシェル殿下!」
「エイミー嬢、ようこそいらっしゃりました」
「殿下、ごきげんよう」
「シンディー嬢もお変わりなく」
まだ十二歳にもならないアシェルはしかし、今までの彼とは見まごうほど、にこやかに笑いながら来賓の令嬢たちをエスコートしていたのだ。
「…アシェル殿下」
「ああ、ミア嬢。よく来てくれました」
ふっと微笑まれたミアは思わず目を見張った。アシェルの笑った顔など今まで一度も見たことがなかったのだ。
「兄も喜びます」
しかし細められたその瞳は昔とひとつも変わることなく、むしろ以前よりずっと底の見えない色をしていた。
涼やかな瞳に反して、柔らかく三日月を描いた口元は年相応とは言えない大人びた雰囲気だった。
無愛想で無口な氷の王子は、少し会わない間に雪解けした春のように温かい空気を纏っていた。
「ほぉ、アシェル様もずいぶんとお変わりになられた」
「ええ、セオドア様のご婚約のお話も進んでいるそうですし、きっとお心変わりされたのね」
「本当、めでたいですわね。候補の方は数人いらっしゃるそうですが、そろそろ決まる頃じゃないかしら」
賓客たちは第一王位継承者であるセオドアの婚約話で持ち切りで、そんな中で様変わりしたアシェルはやはり注目の的になっている。
「ミア、よく来てくれたね。今日は楽しんでいってね」
そんな噂話を知ってか知らずか、ミアの元へやって来たのは誕生パーティーの主役であるセオドアだった。
「…セオドア様。本日はおめでとうございます」
形通りの挨拶をするミアに、優しく微笑んでくれるセオドアはアシェルと違って今も昔も変わらない。
「ありがとう」
上手く話はできていただろうか。
いつの間にか他の賓客の相手をしているアシェルを密かに目で追いながら、他愛のない会話を続けていたミアはもう何も考えられなかった。
氷の王子と呼ばれていたアシェルは、笑顔という武器を得て傍目には以前よりも取っつきやすい風に思える。
けれどミアからすると前よりずっと、人を寄せ付けない空気を纏っている気がしたのだ。
*******
あれから更に六年の歳月が経ち、その間もこの国は怒涛のように揺れ動いていた。
二年前。いったい王宮で何があったのか、第一王位継承者が突然セオドアからアシェルへと移った。
それと同時にいよいよ正式に決まるはずだったセオドアとの婚姻も一旦白紙となった。
それに異を唱えたのはミアの両親で、それであれば現第一王位継承者のアシェルの婚約者にと王宮に訴えて、王族はそれをあっさりと受け入れた。
それはまるでうるさい公爵を黙らせるためだけのような、仕方なくといった対応だったと父は僅かにぼやいていた。
とはいえ幼い頃よりずっとアシェルに恋心を抱いていたミアにとって、それはとても好都合なことであった。
しかし舞い上がるミアを嘲笑うように、その後ハロルド前陛下が逝去され王宮は更に慌ただしくなり、婚約者という形のまま話が進むことは一向になかった。
そして更に変事が起こる。異国から来たという一人の女。その女が来てからアシェルは目に見えて変わっていった。
昔の冷めたような表情とも、社交の場で見せるようになった笑顔とも違う。遠目にも感情の変化がはっきりと伺えるほど、アシェルは表情豊かになっていた。
(なんで…)
剣を交えてはムキになり、打ち合いが終われば笑い合う。そのどれもがミアは見たことのない、あの女だけに向けられた顔。その上あの女には愛称で呼ぶことまでも許している。
それがまた腹立たしくて悲しくて、だからミアは決めたのだ。あの女は排除しなければいけない。
異国の令嬢というこの国の尺度では測れない位を持ち、不思議な力まで有する彼女はミアにとって危険分子以外の何者でもなかったのだ。
「…絶対に許さないわ」
アシェルは今、北の国へ遠征に出ている。
チャンスは今しかない。未だ例の薬を使った様子のないマシューをそろそろけしかけないといけないかもしれない。
あの人の心を手に入れるために、失敗するわけにはいかないのだ。




