第77話 秘事
かつて東の大陸よりやってきたその妖は、盲目の美しい女の姿をしていたという。
濃い霧の結界に護られた島国に難なく入り込んだその妖の目的はただひとつ。
太古の昔にこの国で失った体の一部を取り戻すことであった。
様々な国を渡り、人を喰らい、魔を喰らい。いつしか強大な妖力を得た妖は、気配さえも完璧な人に化けさせられるほどになり、満を持して出生の地へと帰還したのだ。
帝をも魅了する妖艶さで国の中心である大都へ潜り込んだ妖は、人々の心を容易く操りこの国のどこかにあるという体の一部を探し求めた。
しかしいくら探せどそれは見つからない。
またも空振りに終わってしまった。妖は洞窟の中で怒り狂った。見る間に草木が枯れるほどの瘴気を撒き散らし、慟哭すると岩が砕ける。
そんな猛る妖の前にやってきたのは、一人の人間の女だった。
長い黒髪を一纏めにして巫女装束に身を包んだ女は、片手に暗い夜のような色をした刀を携えていた。
妖と女の戦いは三日三晩休むことなく続き、そして四日目の朝。ついに軍配は女に上がる。
大地がひび割れそうなほどの叫び声を最後に、妖は巨大な岩と化して封じられた。
しかし、女とて無傷と言うわけにはいかなかった。
左肩から先はもうとうに失くなっており、片目は光を奪われ、両の脚もあちこちが抉られて骨がむき出しになり黒く変色していた。
生きていることが不思議なくらい満身創痍となっていた女は、辛うじて体を引きずって洞窟の入口まで這うように向かう。
そして最後の力を振り絞り、手にしていた刀を洞窟の外へ突き立てた。これが勝利の合図だった。
誰もいない森の中。あちらとこちらを隔てるしめ縄が張られたそこから、女は残された片目を空へ向ける。
まるでかの鬼を思い出させるような眩い朝焼け。その色を目に焼き付けるように、愛おしげに見つめた女は、一歩あちら側へ後退る。
女はもう向こうへ戻ることを赦されない。
暁の空を遮るように、そっと静かに目を閉じる。最期の力を振り絞って呪を詠唱すると、戸板のようにゆっくりと岩が動いて洞窟の入口を塞いでいく。
徐々に細くなる光をもう一目も見ることもなく、女はその場で倒れると、己の体を楔として妖もろとも暗い昏い闇の中へと消えていった。
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桃里すらも知らないという話を聴かされた。
ブレイク伯爵邸の一室で、アシェルは揺れる燭台の火を見つめながらただただその時の光景を想像した。
まだ幼い娘と愛する夫を残して、死ぬとわかっている戦いに一人で向かった桃里の母親。
代々術師の家に産まれ、どのような経緯で鬼の妻となったのかは分からないが、それでも彼女は結局は人々のためにその身を賭していった。
光が失われていく昏く深い闇の中で、最期に彼女は何を思ったのだろうか。
(いや…今考えるべきはそこではない)
いくら探しても見つかるはずのない答えよりも、優先すべきは今だ。
アシェルは水差しをそのまま呷ると、口元を雑に拭ってから一枚の写し絵を取り出した。これは先程ハロルドから見せられたものだ。
「…兄さんの母親、か」
狐に憑かれたかのように狂ったセオドアの母、アリス。
九尾の狐と呼ばれる厄災を鎮めた桃里の母、暁緒。
なぜ封じられたはずの東の島国から、遠く離れたこのシルフィルド国にその厄災が現れたかはまだわからないが、この二つの話は無関係ではない。
もちろんそれはアシェルだけではなく、晴人もそう思ったからあの話をしたのだろう。
彼が最後に言った言葉を思い出す。
『今回の話、お嬢には伏せてください』
『何故だ?桃里も、いや桃里こそ知っておくべきじゃないのか?』
『…お舘様と暁緒様はいずれ封印が解けるとわかっていたのでしょう。ゆえにお嬢を安全な場所へ…唯一頼れるハロルド様のおられるこの国へ逃した。私はそう思っています』
よもやこちらでも危険に巻き込まれるとはさすがに予期していなかったのだろうが、それはつまり桃里たちの国でも何か異変があったかもしれないということだ。
『だったらなおのこと』
『駄目です。お舘様たちの意志が「お嬢を国から遠ざけること」であれば、今帰すわけにはいかない』
それはつまりたとえ故郷に何が起こっていようとも、最悪滅んでいたとしても、晴人が受けている命は"桃里を最優先で護る"ということなのだと彼は言った。
『まだ歳若いクロトとシロエを共に選んだのも同じ理由でしょう』
晴人という人物は常に飄々としていて主であるはずの桃里にさえ軽口や辛辣な物言いをする男だが、それ以上に彼は他の従者たちと違って今もわからない部分が多い。
「あいつはお嬢を護るためだけに存在してるんだよ」
考え込んでいたアシェルの心を読んだかのように割って入ってきた声に驚いて顔を上げる。しかし室内に人の気配はない。
探るように見渡すと窓の外に黒い鳥が一羽止まっていた。
「クロトか。驚かせないでくれ」
「悪いな。こうでもしなきゃ晴人の目を盗めないんだよ」
これでもギリなんだぜ、言いながら黒く大きな嘴で窓を突くクロトを部屋へ招くと、たちまちいつもの人間の姿へと戻った。こればかりは何度見ても不思議に思う。
「あいつはお嬢のためなら何でもするからな。たとえそれが嫌われることでも気にしない。あいつの最優先は本当にお嬢だけなんだ」
ソファーにどかっと座ったクロトは大袈裟に呆れて見せながらも、ふと真面目な顔になりまだ窓辺に立っているアシェルを振り返った。
「だからさ、悪いんだけどやっぱりお嬢にこの話はしないでやってほしい」
漆黒の瞳が射抜くようにアシェルへ向けられる。これはおそらく牽制だ。
「晴人はずっとお嬢の母親代わりだったから。さすがの俺でも二度も親を亡くすようなことをさせるわけにはいかねぇんだ」
「…それはつまり、晴人が危険を冒す可能性があるということか?」
「お嬢を危険に晒すなって言ってんの」
桃里が本当に、例えば彼女の母親のようなことをすれば晴人は必ずそれを止めるだろう。クロトの意思を悟ったアシェルはそれ以上は言及せずに頷いた。
「心に留めておこう」
「…ありがとな」
普段はあまり表情を変えず、どちらかと言うとぶっきらぼうな顔をしているクロトにしては珍しく、ふっと微かに笑う。
そして今度は自ら窓を開けて、深夜の空へと羽ばたいていった。




