第76話 呪いの出所
南の地へ赴く二日前。
テーブルに置かれた細く裂かれた布切れの端をもしゃもしゃと齧りながら遊んでいるのは蜘蛛の妖、朔月だ。
楽しくなってきたのかころころと転がり、体に巻きつけているところをこつんと指先で小突いてやめさせると、しゅんとした顔で桃里を見上げた。
「で?どこでこれを手に入れたんだ?」
孤児院の一室で詰問を受けていたマシューは、無邪気に遊ぶ蜘蛛を青褪めた顔で見下ろしていた。
「それ、は…」
「あれはその無垢な蜘蛛を呪に浸して化け物に変えた根源だ。しかも固く封をされていた割に破れやすい瓶に入れられていた、つまり」
一段低くなった桃里の声に、びくっとマシューの肩が揺れる。
「相手はおまえごと殺そうとしていた、ということだ」
俯くマシューの目が大きく見開かれた。
どうやら本当に何も知らされていなかったことを察した桃里は、小さくため息を零して朔月を撫でた。
「どういう経緯で手にしたかは知らないが、これを作った人物はおそらく私か、もしくはアシェルを狙っていた。だからおまえに渡るように仕向けたのだろう」
どちらを狙ったにせよあれだけの呪だ。本来ならマシューも巻き込まれて死んでいた可能性が高い。
ようやくその事実に気がついたマシューは真っ白な顔で肩を震わせる。
「あれは…――ひっ!」
大蜘蛛と化した朔月が暴れる様を目の前で見ていたのだ、もしあの中心に自分がいればどうなっていたかを理解したのだろう。
マシューはぽてぽてと寄ってきた朔月に悲鳴をあげて椅子から落ちた。
「怖がるな。朔月はもう暴れたりしない」
あまりの動揺ぶりに問い詰める気も失せた桃里は、呆れながらマシューに側寄ると片手を差し出す。
「話せ。このままではおまえも更に危険な目に遭うかもしれない」
おずおずと桃里の手を取ったマシューの手のひらは、まだ柔らかいが小さな剣だこができていた。
これはあの非力で見栄ばかりだった男が桃里に挑むために作ったものだ。
「…あれは、薬だと言われたんだ」
「薬?なんの薬だ」
「それは、その……」
この後に及んでもごもごと口籠る姿にわずかに苛立ちを示してテーブルへと視線を向けると、それに反応した朔月はぴょんっとマシューの顔面に飛びついた。
「ひぃぃぃ!」
「言え、なんの薬だ」
いよいよ詰問が拷問めいてきて、ようやく観念したようにマシューは半ばヤケのように叫んだ。
「惚れ薬!よく効く惚れ薬だって言われたんだ!トーリに振り向いてほしくて貰ってしまった!」
「……はぁ?」
「最初は、その…どうしても駄目なら使おうと思ったけど、城に行くと毒気が削がれて……。それに!言い訳がましく聞こえるかもしれないけど、君と手合わせする内にちゃんとボクの方を見てほしくなって…だからあれはあのジャケットに入れたまま忘れてたんだ」
そんな胡散臭い言葉に騙されたのか。呆れを通り越して目眩すら覚えた桃里の後ろでイーニアスも同じように頭を抱えていた。
「まさかおまえがそこまで阿呆だとは思わなかった」
「本当に忘れてたんだ!わざと此処に持ち込んだわけじゃない!それにあんな危ないものだとも思っていなかったし…」
手を振り払って椅子に座り直した桃里の意思を汲み取ったのか、朔月はぐるぐるとマシューの顔に糸を巻きつけ始める。
「それで、そんな馬鹿なものを渡してきたのは何処の馬鹿なんだ」
もがもがと苦しむマシューは何とか自力で糸を切り、ぷはっと大きく息を吸ってから恐る恐る周りを見渡して蚊のなくような声で呟いた。
「……エバンス公爵のご令嬢、です」
「やはり…!」
声を荒げたのはイーニアスの方だった。同意を求めるように桃里へ視線を向ける。
「なぜミアがそんなものを持っていた」
「…えっと、確か…公爵経由で、商人から買った?みたいなことを…。裏では名の通った魔道士が作ったもの、みたいに言っていたと…」
つまり城に出向きにくくなった自分に代わり、ブレイク伯爵家の三男で評判もあまり良くはないマシューを利用し、もろとも邪魔な桃里を消す算段だったのだろう。
「イーニアス、その商人や魔道士は調べられるか?」
「すぐにセオドア様とエヴァ様にご報告すれば、おそらく」
もはやマシューには見向きもせず話し始めた桃里たちをよそに朔月だけがマシューの髪を糸代わりに編んだりと呑気に遊び始めた。
「――待ってくれ!」
火急、城へ報せようとイーニアスが退出しようとした時、糸だらけになったマシューが叫んだ。
「なんだ?もう十分話は…」
「その調査、ボクにやらせてくれ」
「はぁ?」
床を這うようにやってきたマシューはそのまま桃里に向かって土下座すると、床に頭を打ち付ける。その拍子にぴょいんっと跳ねた朔月が桃里の胸にくっついた。
「これはボクの短慮が招いたことだ。君を…トーリを危険に晒してしまった…!」
「それはどうでもいいが」
「よくない!」
間髪入れずに食い下がってきたマシューは先程までの怯えた目と違い、真剣な色を宿して真っ直ぐ見つめてくる。
「ボクは卑怯者だ。だからどんな手を使ってもトーリを手に入れたいと思ってしまった。けど…やっぱりあの薬を使うのだけは躊躇われて」
黙って見下ろす桃里に今度は怯むことなく、まるで剣を打ち込んできた時のような必死さでマシューは再び頭を下げた。
「信じてもらえなくていい。けど…せめて今回のことはボクに責任を取らせてほしいんだ」
そう言って頭を擦りつけたまま動こうとしないマシューをしばらく見下ろし、桃里は何度目かになる溜息を零すとその場にしゃがみこんで肩に手を置いた。
「マシュー」
それでもなお顔を上げないマシューに桃里はふっと笑うと、強引に肩を持ち上げて今度は情けなく眉を八の字にした男と視線を合わせる。
「やれるんだな?」
「…っもちろん」
初めて会った時よりずいぶんと印象が変わったマシューの顔つきに、薄く口角を持ち上げた桃里はすくっと立ち上がりイーニアスに向かった。
「母上様たちへの報告はしておいてくれ。だが薬の出処に関してはマシューに一任する」
「……承知致しました」
やはり信用しきれないのだろう、渋い顔をしながらもイーニアスは反論することなく静かに部屋を後にした。
「期限は明日の夜までだ。それまでに見つけられなかったら後はイーニアスたちに任せる」
配下もおらず、こちらのことに精通しているわけではない桃里には、イーニアスたちを頼る他ない。それを歯痒く思うがゆえに、マシューの気持ちは少し理解できる気がしたのだ。
「すぐに調べてくるよ!」
「ああ、待て」
思ったより俊敏に立ち上がり駆け出そうとしたマシューにぽいっと朔月を投げて寄越すと、まだ小さく悲鳴を上げながらも今度はちゃんと両手で受け止めた。
「おまえの身にも危険があるかもしれない。連れていけ」
「……え」
察しのよい朔月は固まるマシューの体を木かなにかのように楽しそうによじ登って肩に鎮座する。
きゅいっと謎の鳴き声を発した蜘蛛に微妙な視線を向けつつも、マシューは自分の両頬を手で叩くと改めて桃里を見つめてから頭を下げて駆け出していく。
「頼んだからな」
一人残された部屋で、かつてセオドアがそうしていただろう窓辺に寄って、桃里は孤児院を出ていくマシューの姿を見送った。




