第75話 百面の君
二十二年前。ルーカスが即位しエヴァを王妃に迎えて数年、まだハロルドがその実権のほとんどを握っていた時代。それは突然の出来事だった。
本や生き物を好み、おおらかな気質だったルーカスは政務には元々あまり関心を見せなかった。
そんなルーカスに代わり、ハロルドの補佐として国を立て直すためその才覚を奮っていたのがエヴァだった。
二人が夫婦となって幾度かの季節が巡り、事件は起こる。
数多いるメイドの一人に過ぎなかったアリスがルーカスの子を宿したという報せは、さすがのハロルドも寝耳に水であった。
もちろんこのことはエヴァにも告げられ、事の始終を知った者たちにはすぐさま箝口令が出された。
そして当然、アリスは王宮の奥へと幽閉された。
「幽閉…」
「しかたなかった。身重のメイドを、それも王家の子を身ごもった娘を外に出す訳にはいかなかった」
王宮の奥でひっそりと赤子を産んだあと、アリスにはアメリアと名を改めさせ、多額の金と一緒にブレイク伯爵が統治するこの地にその身を寄せることになった。
「アメリアは我が家の監視があるとわかっていましたが、村では普通に過ごしていました」
元より王宮でメイドを務めていただけあり家事の一切は得意としていたようで、村では子供たちを集めて簡単な読み書きなどを教えていたらしい。
「そんな女がなぜ突然消えたんです?」
晴人の目からすれば写し絵の女は多少の影は感じるものの、それなりに幸せそうにも見えたのだろう。
口元に指を寄せ疑問符を浮かべる様子に、ハロルドは目を伏せた。
「真意はわからない。しかし…アリスは壊れていた」
「壊れていた?」
今から五年ほど前、アリスに少し奇行が見受けられるようになったそうだ。
初めは家に籠りがちになり、そのまま何日も姿を見せなくなったかと思えば、時折ふらりと外に出ては一人でぶつぶつと呟き彷徨い歩いていた。
アリスの豹変に初めの頃こそ村人たちも気にかけていたが、徐々に悪化していく奇行に怖気づきいつしか避けるようになっていった。
それが更に悪化すると、今度は突然川に飛び込んだり、畑の野菜をすべて掘り返したり。次第にその容態は酷くなり、ついには一晩中、叫びながら走り回ったかと思うとある日を境にぱたりと姿を消したそうだ。
「当然、何度も城へ報せを出したのですが返事は来ず…」
「そんなはずない。報せなんて届いていなかった」
そう言ってブレイクが取り出したのは一通の手紙だった。白い便箋についている黒い染みはおそらく。
「手紙を持たせた遣いたちはアリスと同じように姿を消しました。魔法での転送も試しましたがあえなく…これは唯一、一通だけ街の外に落ちていたものです」
ブレイクが報せを寄越そうと苦心していた頃、城ではさらに大きな問題が発生していた。
ハロルドが蠱毒により倒れたのだ。それがちょうど今から三年前。アリスがおかしくなってからおよそ二年が経っていた。
「まるで狐憑きのようですね」
「キツネツキ?」
「ええ」
写真に指を添えた晴人はじっとそれを見つめながら呟いた。
「私の国には突然奇行を起こすと狐に憑かれたといいます。狐は人を化かすと言われ、実際、知人の狐の妖もよく人を化かしてからかっていました」
一瞬懐かしむような目をした晴人の言に付け足したのはクロトだった。
「そいつみたいな上級の妖なら分別も持ち合わせているが、低級の妖ならとにかく人に憑いてその生気を食らう。憑かれた人間はそれに苦しみ本能のまま行動する、それがいわゆる狐憑きと言われている」
彼らの国ではよくあること。しかし。
「でも、こいつは違う」
とんっと椅子から立ち上がったクロトは窓辺に寄り木の上で羽根を休める小鳥を見上げる。あの小鳥たちも、もう少しすれば南の地へ旅立つのだろう。
「この辺りにいる鳥たちに聞いた。山の奥で得体のしれない獣がいた、と」
「狐か?」
「狐なら狐って言うさ。この山には狐も兎もいた。ただ鳥たちは"人ではないもの"、"知らない生き物"それを総じて、"得体のしれない獣"と言ったんだ」
「妖気は?」晴人の問にクロトは肩を竦める。
「俺が来たときには何もなかった。ただ…」
「ただ?」
「…あの山は死にかかっている」
紅く染まった山の中腹へ視線を向けながら、クロトは猛禽類を思わせる漆黒の瞳を細めていた。
「晴人、もしかしたらこれは」
「…百面の君、ですか」
はっきりと頷いたクロトの髪がわずかに逆だったような気がした。
異国の化物の話だ。ハロルドはその話を聞いた時、いまいちピンとはこなかった。
しかし今あの蠱毒を祓うほどの力を持つ晴人が、険しい顔をしていることから逼迫していることは理解した。
「待て、その。便宜上、狐と言うが。狐とセオドアの母とどう関係がある。単に取り憑かれただけではないのか?」
アシェルの疑問に、晴人は珍しくどこから話すべきか躊躇するように間を置いて、ゆっくりと口を開いた。
「百面の君は狐の妖です。それも我が国よりさらに遥か、東にあるという大陸をも喰らい渡ったと言われる稀代の妖、九尾の狐。――そしてそれを封じたのが、桃里様の母、暁緒様です」
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城下町から南へ馬車で一日ほど行くと深い森が続き、更にそこを超えると湿地帯が広がるサウスプレインへと繋がっている。
そのサウスプレインの手前に当たる王都の南側はエバンス家が管理する領地だった。
「はぁ…はぁ……まさかこんなに何もないところとは……」
両手に大荷物を持ち、肩で息をしながら付いてくるのはマシューだ。イーニアスよりは若いはずなのに、額には玉のような汗を浮かべていて、朝は整えられていた髪もすっかり乱れていた。
「あの森がエバンス邸の丘から繋がっていた山なんだな」
「はい。ここの山は深く、南の街へ行くには峠を二つ超える必要があります」
エバンスが家を構える地区は城下と変わらず賑わっていたが、南へ離れれば離れるほど民家は減り、人の気配もなくなっていく。
「ハロルド様の時代に人々は活気ある城下町に集中するようになったので、この辺りはもうほとんど人は住んでいません」
代わりに山深く土壌もよいこの地域は農業が盛んなため、住まいは便利な街の方へ移して通いで作物の世話をしている者も多い。
そんな農園の広がる場所から更に進むと、今度はいよいよ廃村が目立つようになりサウスプレインへと続く森へと入る。
「この先に、例の人物がいるんだな」
遅れてきたマシューを振り返ると、彼は疲れ切った顔で小さく頷いた。
「ボクの部下が、総力を、あげて、探したので、間違いない、かと」
呼吸を整える間もなく途切れ途切れに話すマシューに、桃里は目を細めてから改めて森の先を見据えた。
「その言葉、信じるからな」
背負い直した布袋の中でチャキっと微かに音がする。桃里は布袋の紐を握りしめて再び歩を進めはじめた。




