第72話 朔月
打ち合わせを済ませた晴人が自室に戻っていってからしばらく、僅かに感じた魔力の流れにアシェルは目を見開いた。
窓を打つ雨にほんの微かにだが自分の魔力が混ざっているように思えたからだ。
(…まさか、何かあったのか?)
お守りに渡したあの石にはそんなに大きな力はない。
せいぜい邪気や毒に反応して持ち主の身を守れる程度だ。だからこれはきっと気のせいで、桃里も今頃は城に戻りつつがなく過ごしている。
(きっと今日はレオたちと楽しんでいたはずだ)
不安を押し殺すようにアシェルは自分に言い聞かせた。
「…桃里」
無意識のうちに名前を呟いて窓の外を覗く。通り雨はもうすっかり上がっていて、雲の切れ間からちらちらと星が顔を出している。
常に魔法で火を灯している城からではまず見ることのできない星の光が、月のない夜を照らしている。
小さいながらも煌々と輝くそれは彼女のように力強くて美しく思える。
「無事でいますように」
まだ気が昂っているのか眠る気分にはなれなかったが明日も早い。そろそろ休まないと今後に響く。
アシェルは城の自室より手狭な部屋のベッドに潜り込み、これも存外悪くないものだと目を閉じる。
明日からは更に過酷な道のりになるだろう。そう考えながら、気付けば深い眠りに落ちていた。
*******
孤児院の上に降り注ぐいだ淡い光の粒は、風に乗って北の方角へと流されていく。
僅かに残ったのは湿った土の匂いと木の根本にできた小さな水溜りだけだった。
その水溜りの中では割れた瓶の欠片と一緒に、ばたついている生き物がいた。細い手足を懸命に動かして水溜りから逃れようとしている矮小なそれは、手のひら程度の蜘蛛だった。
「おまえ…生きていたのか」
あれだけの瘴気にまみれて呪いと化した大蜘蛛は、もう本来の姿は持っていないだろうと思っていた。
あちこち打ち付けたせいで軋む体を引きずりながら側へ寄ると、蜘蛛の体に文字のような物が書かれているのが見える。
「それが呪いの正体か」
まだ水溜りで暴れている哀れな蜘蛛を見下ろした桃里は、片手に提げていた刀をおもむろに持ち上げた。
そのまま振り下ろされた刀は吸い込まれるように小さな蜘蛛の背に突き刺さり、眩い光が辺りを照らす。その柔らかく細い光は屋敷の中まで届いていた。
ようやく光が収まると、足元にいたのは何事もなかったかのように歩く先程より更に小さくなった蜘蛛だった。
赤い髪を靡かせて飛び回る桃里の姿に目を奪われていたのはイーニアスだけではなかった。
いつの間にか隣にいたレオと、そして隠れていたはずのマシューも、まるで恐怖すら忘れたように彼女の一挙手一投足に魅せられていた。
「トーリ!!」
しかし地面に叩き落された桃里に振りかざされる大蜘蛛の太い脚に、悲鳴をあげたのはレオだった。
「桃里様ッ!」
――串刺しにされる!――
イーニアスは思わず屋敷を飛び出した。
「くっ…!」
外に出た瞬間、視認できるほど濃い瘴気が襲いかかってくるも、胸に入れていたエルダーが効果を発揮したのか幸い五感は確かだった。
この巨大な化物を前に自分ごときが何をできるかはわからないが、せめて盾にならなければ。
駆け出したイーニアスが蜘蛛の脚を払うように剣を一閃したのと同時に、桃里の体が光に包まれた。
「これは…殿下の……?」
目を見張るイーニアスの前で桃里はアシェルが渡した石をどこかへ向かって投げつける。
瞬く間に砕け散ったそれは雨となり、屋敷を包み込んでいた瘴気が薄れていった。
「そうか…あの石の中身は桃里様のエルダーだったのか」
アシェルが石に閉じ込めた液体の正体。それは桃里が神楽の際に使ったエルダーの葉だった。
あえて言わなかったのはおそらくアシェルに渡したものを自分に使われることを桃里はよしとしないと思ったからだろう。
桃里の霊力とアシェルの魔力が合わさった雨は、毒していた庭を元の美しい緑へと戻していく。
「はっ…、桃里様!」
大蜘蛛に止めを刺したのだろう。刀を抜いて鞘に納めた桃里に、我に返ったイーニアスは慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか!?お怪我は!?」
「あちこち痛い。でも大丈夫だ。すぐに治る」
魔獣に襲われ崖から落ちた時と同じ言葉を発する桃里に、イーニアスは絶妙な顔をしながらそっと肩に手を添えて支える。
「すぐに手当てしましょう。早く中へ…」
ふと手の甲にもぞもぞとした感触がして訝しみながらそちらを見て、そして軽く呻いた。
「っまだ生きて…!?」
「なんだ、付いてきたのか。――こいつはもうただの蜘蛛だ。殺してやらないでくれ」
思わず手を振り払おうとしたイーニアスに、桃里は落ち着いた声で諌めるとそっと蜘蛛に指を差し出す。
「もう行っていいぞ。おまえは自由だ」
しかし蜘蛛は桃里の指から離れずにむしろ懐いているようにさえ見える。蜘蛛が懐くのかはわからないが。
「桃里様…」
先程まで暴れまわっていた凶悪な大蜘蛛とは思えない仕草で(蜘蛛の仕草はやはりよくわからないが)、どうにも離れる気配のないその虫を見下ろし困惑する。
「んー…しかたないな。じゃあおまえに名をやるよ」
何がしかたないのか。なぜか蜘蛛と意思疎通ができているように思える様子にさすがのイーニアスもたじろいでいると、桃里はすっと蜘蛛を顔の高さまで持ってきてしばらく思案したあと。
「…朔月。私の国では月のない夜をそう呼ぶ。月の始まりの夜だ」
桃里の言葉に蜘蛛は首を傾げているようにも見えて(これもまた首がどこにあるかはいまいちわからないのだが)、不思議だった。
「おまえの名は朔月。私の眷属になることを赦す」
まるで宣言するように明朗に響いた声とともに桃里が蜘蛛に息を吹きかけると、ぱっとその体が輝いて視界が白く奪われる。
咄嗟に顔を覆っていた腕をゆっくりと解くと、今度はぽふんっとした何かが再び視界を遮った。
「……桃里様。これは」
「蜘蛛だ」
「っ…!」
イーニアスの顔を覆い隠すほどの大きなそれを思わず鷲掴みにしてひっぺがすと、それはちょっとしたぬいぐるみサイズの、ずんぐりとした黒色の蜘蛛っぽいなにかになっていた。
「名前を与えたことで私に使役されるものになった。私の力を食ったからな、見た目もだいぶ丸々とした。焼いて食えそうだ」
「ピギュっ」
蜘蛛と言うより鳥のような鳴き声をあげた大蜘蛛、もとい小蜘蛛(普通の蜘蛛より何十倍も大きい)は怯えたようにイーニアスの手の中で藻掻いている。その姿は不思議なことに少しかわいい。
「冗談だ。眷属になったからには働いてもらうぞ。言葉も覚えないとな」
「ぴゅ…」
八つある青い目を不安げに動かしながら手にしがみついてきた蜘蛛を、もう振り払おうとは思えなかった。
「朔月、おまえをあんな姿にした下手人は必ず私が捕まえる。…だからもう怯えるな」
怯えているのは桃里にでは、というのを飲み込んだイーニアスは満身創痍の彼女の体を改めて支えながら、肩に乗った新たな仲間にやっと少し安堵の息を漏らしたのだった。
二人と一匹が屋敷へ歩きはじめると、ようやく安全だと悟ったのかレオやエレノアたちが飛び出してくる。泣きながら笑いながら、驚きながら出迎えてくれるその後ろ。
桃里が呪いに止めを刺した場所で、抉れた泥に埋もれるジャケットの片隅で変色した布紐がわずかに風に揺らめいていた。




