第71話 雨の降る夜
早朝に城を出発してから馬車に揺られること半日。
緩やかに陽が陰り始めた頃、王都から一つ目の街に到着した。さして大きな街ではなく、むしろ村に近いそこは草原が美しい牧羊地で名産はもちろん羊や鶏だ。
王都に出回っているほとんどの肉はこの地から流れてくるようになっている。
「桃里が見たら喜ぶだろうな」
村唯一の宿屋には先んじて城から連絡が来ていたこともあり、テーブルには豪勢な食事が並んでいた。
その中でもアシェルが真っ先に手を付けたのは鶏と野菜を蒸し焼きにした一品だった。
「お嬢が好きなのはもっと大雑把な串焼きですけどね」
「ん〜!でも確かにこれはとっても美味しいにゃ!付いてきてよかったぁ」
「ええ。城で出るものとはやっぱり鮮度が違いますわ」
同じくテーブルについている晴人とシロエ、オリヴィアも各々食事を楽しみながら一日の疲れを癒やしていた。
他愛のない雑談を交えた食事を続けてしばらく、そろそろ皿も空になりアシェルは改めて口を開いた。
「北の国までは早くともまだ九日はかかる。ここから先はほぼ走り通しで、馬車で夜を過ごすことにもなるだろう。時間はまだ早いがみんな今日はもう休んでくれ」
この草原地帯を超えるとしばらくはほとんど何もない山道へと変わる。幸い馬車が走れるルートは確保されているが悪路になることは避けられなかった。
「私はこのあと若様と今後の打ち合わせをします。オリヴィア様はシロエと部屋に戻ってしっかり休んでください」
「はい。お兄様も晴人様も、あまり遅くならないようにしてくださいね」
最後に用意されたお茶とデザートを済ませてから、オリヴィアとシロエは自室へと戻っていく。
本来は別室にするべきだが何が起こるかわからない旅程だ。今回二人が同室で過ごすことは前もって決めていた。
「ではお二人とも、おやすみなさいませ」
「おやすみなさ〜い!」
お泊り感覚で浮かれている様子の娘たちの楽しげな笑い声と、パタパタと軽快な足音が徐々に遠ざかっていく。
「まったく、遊びじゃないというのに」
「いいではありませんか。どうせ同じ旅路なら大変なだけよりも楽しい方が苦になりません」
「それもそうだな」
広げた地図とハロルドからの手紙を前に、今後の予定を改めて確認する。
そうしてアシェルと晴人が灯りを消したのは、雨が降りはじめた頃だった。
*******
今夜は新月だった。月灯りのない夜というのは想像以上の闇で、厚い雲に覆われた空は星の光も届かない。
「とんだ招かれざる客だ」
桃里は見上げるほどの巨大な蜘蛛を前にしても臆すことなく、むしろ品定めする猛禽類のように紅い目を細めた。
瞬間、蜘蛛の前脚が桃里の頭をめがけて振り下ろされる。屋敷の中からレオのくぐもった悲鳴が聞こえた気がした。
桃里は一足飛びに宙へと舞うとそれを躱して地面に突き刺さった脚に飛び乗る。
「成りはでかいがまだ赤子だな。うちの土蜘蛛どもの方がもっとすばしっこくて厄介だ」
キィエェェェェと硝子を引っ掻いたような不快な悲鳴と同時に太い脚が地面に落ちる。
いつの間に斬ったのか、握られた夜霧三日月はまるで本物の三日月のように輝いて桃里の赤い髪を照らしていた。
「下手人を聞きたいところだけど、おまえは言葉も碌に持たないらしい。…呪いに転じてしまったら、もう祓うしかない」
大蜘蛛の頭部に足場を移した桃里は、暴れる妖を落ち着かせるように固いそこに手のひらを添える。
元はただの蜘蛛だったのだろう。見下ろす眼差しが憂いを含んでいるのは、本当は殺めたくないという一欠片の悲しみだった。
「ごめん」
振り払うように暴れる土蜘蛛の脳天に桃里の愛刀が突き刺さった。
先程の比ではない、もはや音とも呼べない悲鳴が上がり大量の靄が吹き出した。
途端に大蜘蛛の体が溶けはじめ真っ黒な霧へと姿を変える。
「ッ…!?瘴気!?――本体は別なのか!?」
不意に足場が崩れだし、桃里はなんとか体を回転させて地面に着地する。しかし視界さえも遮る瘴気に方向感覚が奪われそうになり、反射的に跳躍すると一足飛びに屋敷の屋根へと飛び出した。
「…あれか」
庭中に充満した瘴気が再び大蜘蛛の形に戻りつつある中、桃里は必死に目を凝らす。すると庭で一番大きな木の根本で何かが鈍く光った。
「でも…」
それを遮るように再び姿を現した大蜘蛛は、再生した脚を振り上げて地面に付き立てる。そのまま凶暴なまでの顎を剥き出しにして、桃里へ向かって糸を吐き出した。
「チッ…!」
屋根の上を走りながら刹那の動きで刀を薙いでは糸を切り捨てるも、次から次へと吐き出される糸が屋敷に叩きつけられる。その度に激しい揺れが起こり中から子供たちの悲鳴と泣き声が聞こえてきた。
(ここは駄目だ、離れないと…ッ――!?)
子供たちの声に一瞬だけ気を取られた。その隙をついて足に巻き付いてきた糸は、容赦なく桃里を地面へと引きずり落とす。
「カハッ…!」
重い音を立てて地面に叩きつけられて、肺からすべての空気が抜ける。
咳き込むたびに走る鈍い痛みに、僅かに反応が遅れた桃里をめがけて今度こそ真っ直ぐ脚が振り下ろされた。
(しまった)
やっぱりだ。やっぱり私はまだ弱い。この程度の妖に父や母なら遅れを取りはしなかっただろう。
いつも爪が甘いと言ったのは晴人だったか。それとも父か。
もはや回避は間に合わない。ならばせめて刺し違えても。そう思って身をよじると、降りかかる脚に向かって夜霧三日月を握り直した。
(…アッシュ)
なぜこんな時に頭に浮かんだのは彼の顔。目だけは瞑るまいと見開いて、大蜘蛛の脚を見据えながら刀を振りかぶった瞬間だった。
胸元から淡い緑色の光が弾けて桃里の体を包み込むと、突き刺さるはずだった脚がぶわりと霧散した。
「これ…」
温かい風のような、これはアシェルの魔法だ。
服の隙間から覗いた石は本来の緑色ではなくどす黒い色に変化してしまっていたが、そこからは確かに彼の体温が感じられた。
「護って、くれたのか…」
突き刺そうと振り下ろされるたび、風に削がれる砂のように崩れていく脚を見上げながら桃里はぎゅっと石を握り込む。
目的のものである大蜘蛛の本体はその巨体の向こう側に見えている。
「…おまえに、賭けるよ」
桃里はそっと石に口付けると、おもむろに革紐を引きちぎりそれを大蜘蛛の方へと投げつけた。
巨体と地面の隙間は十分すぎるほどに空いていて、石は速度を緩めることなく一直線に飛んでいく。
「頼む!」
なにかにぶつかった石はその反動で砕け散り、中から溢れた液体が零れ落ちた。
泡の玉のように跳ねた液体はそのまま風に舞い上がり空へと昇ると、立ち込めていた雲を晴らしていく。
そして気づいた時には、優しい雨になった。
*******
外からぽつぽつという微かな音がして窓に近づいたオリヴィアは、真っ暗な硝子に写った自分の顔に重なる雨粒を見つめて呟いた。
「まぁ、雨ですわ」
「雨?出発までには上がってほしいなぁ」
既にベッドに潜り込んでいたシロエは猫の姿で布団から顔を出し、そしてふと天井を仰いだ。
「シロエちゃん?」
「なんだろう、この雨…少しだけお嬢の匂いがする」
「お姉様の?」
「うん。なんとなくだけど」
本降りになるかと思われたそれは通り雨だったのか、僅かに草木を濡らし湿った気配だけを残して止んでいた。
「虫が鳴いてる。やっぱり通り雨だったみたい」
「そうね」
既に寝静まっているのであろう村に光はない。
シロエが再び布団に潜り込むのを見守ったオリヴィアは、部屋の灯りを落としてから自分もベッドに入って瞼を閉じる。
「おやすみなさい」
リーンリーンと聞こえてくる虫の音はまるで桃里の舞いのときに聞いた鈴の音のように澄んでいた。




