第70話 大蜘蛛の襲撃
悪戦苦闘しつつもなんとか花を作る作業が一段落ついた頃。
軽食の用意をするためにエレノアと桃里がキッチンに立つと、レオは「外の様子を見てくる!」と勢いよく飛び出した。
「わぁ!だいぶ進んでる!」
カボチャや瓜をくり抜いたランタンや、絵の描かれた木の板が庭のそこかしこに広がっていてレオは目を輝かせる。
話には聞いていたし、街の子供たちが楽しそうにしているのは見てきたが実際に参加するのはレオも初めてだった。
「クロトとシロエもいたらよかったのになぁ」
一番近くで仲良くしていた鳥と猫の妖が今日はいない。
本当ならシロエは参加するはずだったが、アシェルと一緒にでかけてしまったと聞き内心少しがっかりしていた。
「お土産買ってきてくれるかな…。あれ」
まだ騒がしく準備に勤しむ孤児院の仲間たちの元へ向かう途中、布の塊のようなものが落ちていた。
「…ジャケット?あの兄ちゃんのか」
すっかり砂埃をかぶってしまっているがレオから見てもわかるほど仕立てのいいジャケットは、間違いなく桃里が連れてきたあのマシューとかいう貴族のものだろう。
「ったく、こんなとこに置いてて失くなってもしらないからな」
言いながら側にあった木の枝に引っかけようとした瞬間、ころりと何かが地面に落ちる。
一瞬光ったように見えたそれを慌てて拾い上げると、何やら赤い液体の入った小瓶だった。
瓶の口はきっちり締めるように小汚い布が巻き付けられていて、とても貴族のジャケットから出てきたとは思えない代物だ。
「よかった、割れてないみたいだけど…でもなんか、気持ち悪い」
手にとった瞬間嫌な気持ちになったレオは、さっさと手放したくてそれをジャケットのポケットに突っ込んだ。
「あっ!レオ兄だ!ねぇ見て見て!また畑のおじさんがカボチャを持ってきてくれたよ!」
「すぐいく!」
改めてジャケットを木に引っかけて、レオは声のした方へと走っていく。
明るい日差しと木の影が柔らかなコントラストを作る庭に響き渡る子供たちの声。
そんなのどかな空気に反してポケットの布地にはほんの僅かに、じわりと赤黒い染みが広がっていた。
休憩を挟んでからもう一踏ん張りしたおかげで準備は順調に進み、陽が暮れる頃に戻ってきた子供たちとマシューはすっかり泥だらけになっていた。
「…つ、疲れた」
テーブルに突っ伏して呻いたマシューは疲労困憊でくたびれたままうなだれていた。
「お疲れ」
そんなマシューの頭の横にコトリ、小さな音を立てて置かれたのは甘い香りと湯気をくゆらせるココアだった。
香りに釣られて生気の抜け落ちた虚ろな視線を持ち上げると、にっと笑う桃里がマシューを見下ろしている。
「エラからだ。それと子供たちが湯から上ったら夕餉にするから食べていけって」
結局なかなか進まない外仕事を見かねた桃里はマシューと同じか、下手するとそれ以上に動き回っていた。
それだというのに彼女はまったく疲れた様子もなく、優雅に甘い香りのするカップを手にしていた。
「…トーリはあまり疲れていないようだね」
「まあな。どこぞの坊っちゃんとは出来が違うんだ。それにこういうのには慣れてるから」
言いながら桃里は窓の外を見やる。祭りにはまだ早いと言ったのに子供たちが先走って火を入れたランタンがゆらゆらと揺れていた。
「私の住んでいた場所はこの孤児院のようなものだった。行き場を失くした者たちが身を寄せ合い暮らしてたんだ」
すっかり陽が暮れてしまった庭は一段と真っ暗で、その中に浮かぶように揺れるランタンの火は幻想的ながらもどこか不気味だった。
「トーリはお嬢様じゃないのかい?異国では名のある家の者だと聞いていた」
「尾鰭に背鰭だな。私はただの…」
本当に純粋な疑問で問いかけたのだが、ふと途切れた言葉に気を悪くしたのかと慌てて手を振り大袈裟に謝ってみせる。
「い、いや、悪かったよ!怒らないでくれ!」
「しっ」
しかし桃里はマシューを見ることもなく、ただじっと窓の外を見つめて、否。睨んでいた。
「なんだ…何かが……」
「トーリ!お湯上がったよ!」
レオたちの賑やかな声にぴくっと一瞬、桃里の気が逸れた。瞬間、庭の隅にある木が赤い光とともに爆ぜる。
「きゃああああ!?」
「なに!?」
「うええええん!」
子供たちの悲鳴が一斉に響く。遅れて浴室から出てきたエレノアは、小さな赤子を抱えながら混乱して騒ぎ出す子供らを落ち着かせようとした。
「桃里様ッ!」
最後の片付けをしていたイーニアスが裏口から飛び込んで来たのはその時だった。
「イーニアス!無事だったか!」
「はい。私は裏の井戸の方にいたので…ですが今のは」
「あれだ」
桃里が視線で示した先はランタンの火も消えて月明かりもない闇に沈んでいる。しかしよく目を凝らすと、そこに何かが蠢いているのが見えた。
全貌はわからないが庭の三分の一を占める巨大な塊は、脚のようなものを使いその場で回転しているのかゆっくりと動いていた。
「なんですか、あれは」
「大蜘蛛だ」
「蜘蛛!?ああああんな大きな蜘蛛いるわけないじゃないか!」
桃里の言葉をマシューは真っ青な顔で否定する。
例え田舎町にいる大きなものだったとしても、蜘蛛と言えばせいぜい手のひらサイズ程度のはずだ。
「あれはもう普通の蜘蛛じゃない。呪をかけられて妖にされたんだろう」
「ア、アヤカシ…?」
「しかし何故この敷地内に。ここは殿下と晴人様が二重に結界を張っているはずです」
「…誰かが持ち込んだか」
含みのある桃里の言葉を否定したのは意外にもイーニアスだった。
「それでも反応はあるはずです。あれほどの呪いを結界に触れさせない魔法や呪術があるとは…」
バチンッと激しい音を立てて屋敷が揺れる。大蜘蛛の脚が壁を突き破ろうとして結界に阻まれたのだ。
入口近くの壁に飾られていた青々としたエルダーの端がほんの僅かに茶色くなっている。
「あわわわわっ!」
「あれの効果はちゃんとあるようだ。この屋敷はまだ保つだろう。実体化した以上、結界に阻まれて敷地内からは出られないと思うが…」
テーブルの下に真っ先に駆け込んでいたマシューを、桃里が静かに一瞥した。ぞくっと背筋に冷たいものが流れる。
「今は犯人探しをしてもしかたない。先にあいつを祓わないと」
「策はあるのですか」
壁際に立て掛けていた刀を手にした桃里は、窓から覗いた八つの赤い眼を睨みつけつつ足音を殺して裏口へと向かう。
「イーニアス、私が出たらすぐこの扉にも晴人の札を貼れ」
「お一人で行くつもりですか!?私も出ます!」
「駄目だ。万が一のためにおまえはここへ残ってくれ」
「ですが…!」
食い下がるイーニアスを振り返った桃里は、そのまま部屋の隅に固まっているエレノアと子供たちに微笑みかけた。
「他には頼めない。お願いだ」
「…わかりました。ですが絶対に無茶はなさらないでください。私はあなたを守るためにここに残っているのですから」
「…――ああ」
たったひと振りの刀だけを手に屋敷から出ていく桃里の黒髪が、風もないのにざわりと靡いた。
扉から闇の中へと消えるその瞬間、最後に見えたのは目が覚めるほどの真紅だった。




