第65話 公爵令嬢と伯爵令息
淡いモスグリーンのワンピースは普段のドレスに比べると格段に地味なもので、その上から羽織ったローブも庶民に出回っている薄い布だった。
「まさかあなた自ら来られるとは思いもよらず、満足なもてなしもにできずに誠に申し訳ありません」
しかしローブの下から現れた少女は質素な服でも隠しきれない気品と高貴な雰囲気を纏っている。
「ミアお嬢様」
音もなくカップを置いたミアは、向かいに座ったマシューへと視線をあげてゆったりと微笑んだ。
「かしこまらないでくださいマシュー様。わたくしは父の代理で来ただけですわ」
「エバンス公爵の代理とあれば、なおさらそういうわけにはいきません」
しばらく他愛のない世間話を続けるミアに、マシューは内心わずかに訝しむ。
確かに城に住まう隠れ君へ取り成してくれたのはエバンス公爵だ。
とはいえ本家を北の果てに置くような、伯爵家の中でも弱小と言えるブレイク家にその令嬢が理由もなくわざわざ来るはずもない。
「ではそろそろ、本題に入らせていただいてもよろしくて?」
きた、と思った。マシューは思わず姿勢を正して唾を飲み込む。当たった試しはない勘だが、この娘は何か違和感がある。
「これをマシュー様に」
「これは…?」
ことっと小さな音とともにテーブルに置かれたのは手のひらに収まるサイズの小いさな瓶だった。
小汚い布紐で封がされた中身は濃い赤色の、よく言えばチェリーシロップのような、悪く言えばまるで血のようにも見える。
感覚的に気持ちの悪さを感じるそれに、マシューは眉をひそめた。
「ええと…これは何かのシロップですか?あいにくボクは料理には疎くて」
戸惑うマシューをよそにミアは淡いピンク色の唇を妖艶に歪めて微笑んだ。
「媚薬ですわ」
「びっ…!?」
「なんて。ちょっとした惚れ薬ですの。父が知り合いの商人から買い付けたもので、その筋では名の通った魔道士が作ったものらしいですわ」
公爵令嬢の口から飛び出た思わぬ言葉に完全に動揺したマシューは、情けなくもおっかなびっくりな手付きで小瓶を手に取った。
光も通さない小瓶を目の高さまで持ち上げて、表面に貼られたラベルにじっと目を凝らす。
「…知らない名だ。これの製作者はそれほど有名な方なのですか?」
「ええ。その筋では、ですが」
つまりモグリということなのだろう。城に仕えることも街に出てくることもない、そういう類のはぐれ者はどこにでも一定数いるものだ。
「しかし、なぜこれをボクに?」
少しばかり冷静さを取り戻して問いかけると、ミアは変わらず優雅に紅茶を飲んでいた。その様子が逆に不自然で得も言われぬ不気味さがある。
「あの異国の娘、トーリ・アマツカは一筋縄ではいかなかったのでしょう」
まるで見てきたかのように口を開いたミアに、マシューはわずかに背筋を冷やした。
「…ええ、成人祭の時に見かけたとおり、とても魅力的な娘なのは確かでしたが…」
先程までの動揺をなんとか押し隠して同意するマシューに対して、ミアはやはり穏やかに微笑む。
しかしなぜだろうか、口元や目尻の変化に反して瞳だけはぴくりとも笑っていない。感情の欠けた色のない目をしていた。
「――わたくし、アシェル殿下の許嫁ですの」
「もちろん存じております」
格下の屋敷にお忍びのような姿で足を運んでまで、この娘はいったい何を言いたいのだろう。
「その殿下が懇意にしている方ですもの。ですから…ね」
硬直するマシューの頬に伸ばされた白い指先には傷一つなかった。薔薇の棘刺さったことなどないであろう、とても美しくて、そして冷たい指先。
桜色の爪先がつつっと頬を撫でた。
「ぜひとも、あなたのような素晴らしい男性の妻に迎えてほしいと思っておりますの」
とろりと蜂蜜のように甘い色をした双眸の奥底が炎のようにゆらゆらと揺れていて、魅入ってしまう。
「マシュー様。あなたほど素敵な人は他にはいないわ。だからもし、困った時はこれをお使いになって?」
自身の意思に反してこくりと僅かに頷いてしまう。あの目には逆らってはいけない。本能が警鐘を鳴らしていて、まるで自分の身体ではないようだ。
「…ありがたく、頂戴します」
「ええ。どうぞ」
ふっと手が離れた途端、まるで霧が晴れたように視界が明るくなった。
驚いて顔を上げるとミアは既に部屋を出ていくところで、一瞬振り返ったその目はまたうっとりと甘く細められていた。
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「これは本当に効きますの?」
「ええ、もちろん。確かなお方の考案した薬にございます」
城下街から遠く離れた人気のない森の中に佇む廃墟で、その者はこの家に相応しい実にみすぼらしい身なりをしていた。
「前の魔獣は失敗したけれど」
「あれはただのお遊び。今度は間違いなく本物です」
ミアがトーリの存在に憤っていたある日のことだった。
まるで見計らったかのように父に接触してきたこの得体のしれない浮浪者は、金と引き換えにあの魔獣の種を渡してきたらしい。
父としては少しでも娘の機嫌を取れればと思ったのだろうが、浮浪者が持っているものは結果的には本物だった。
それは王族ですら易々とは手に入れられないようなもの、つまり呪いの種だ。
ミアは小瓶と引き換えに金を置くも、相手はそれに見向きもせずにローブの下から落ちくぼんだ目を覗かせる。
性別もわからないほど痩せ細った体に黄色く淀んだ精気のない双眸。焦点の定まらない暗い瞳はまるで死者のようだった。
「それを一滴でも飲ませれば、またたく間に呪いが広がりましょう」
「…わ、わかりましたわ」
引きつって掠れた声に背筋が凍る。やはりどうしても生きた人間と話しているとは思えない。
あまりのおぞましさにミアはさっさと小瓶をしまうと踵を返して逃げるように廃墟を飛び出した。
(お父様はもうあてにはなりませんもの。自分の手で掴んでみせるわ)
アシェルの成人祭以降、両親は屋敷に籠もりがちになり、父はついに倒れてしまった。そして母もまた怯えたように自室に閉じこもり、あれから一歩も外に出なくなってしまっている。
すべてはあの女が来てからだ。
「…必ず、殺してやりますわ」
待たせていた馬車に駆け寄るミアの背中に、本人すら気付いていない黒い霧が絡みついていた。
それを遠くに認めたのは、廃墟から覗く濁った視線だけ。




