第64話 優しい手のひら
ブレイク伯爵家の別邸に駆け戻ったマシューは、メイドたちも驚く形相のまま自室に飛び込んだ。
「なんなんだあの女は…!」
これまで女性にはそれなりに人気があるという自負があった。見目に関してはもちろんのこと、貴族としての教養や会話術に関しても身につけている。
なによりそれなりに名の通った伯爵家の三男で、家督は継げないが社交界では引く手数多。それでもまだ身を固めなかったのは自分に釣り合う女性が現れなかっただけのことだ。それなのにあの女は。
「…トーリ」
成人祭の時もマシューは周りに複数の女性を侍らせて、ダンスの相手も絶えることはなかった。
そんな折、それが誰なのかも気にせずに、なんの気なしに声をかけた相手があのエバンス公爵令嬢だった。
彼女はパーティーの場とは思えないほど青褪めた顔で俯いていて、あまりの生気のなさにぎょっとしたのは記憶に新しい。
そのことがきっかけでエバンス公爵ともいくつか会話をすることとなり、今回の話が舞い込んできた。
気分が悪そうな令嬢に声をかけたのは本当に偶然だったが、これはまたとないチャンスだと思った。
「必ず手に入れてやる」
公爵ルートで買い取った成人祭の時のトーリの絵姿を見下ろしたマシューは、爬虫類めいた瞳を細める。
「マシュー様。エバンス公爵家の使いの方が見えておられますが」
控えめなノックと共にメイドの声が届く。
「すぐ行く!」
後ろ盾は強ければ強いほどいい。次期王位継承者と言われているアシェルの婚約者がいるエバンス公爵家は、この国で今もっとも勢いのある貴族だ。
「待ってろよトーリ。おまえを妻にしていずれはボクがこの国で最高位の貴族となる」
既に優秀な兄が二人もいるこの家で乗り上がるのはほとんど不可能に近い。かといって自分に兄たちほどの才能がないことも理解していた。
三男である自分が見返すためには手段を選んではいられなかった。
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「なるほどなぁ」
一通り話を聞き終えた桃里はつまらなさそうにお茶をすする。
「どいつもこいつも、そんなに家柄や位が重要なのか」
「一応は上級の血筋と家柄で、既に一族の頂点に君臨するお嬢には理解できない話でしょうが」
「家柄ぁ?あんな有象無象の隠れ里で家柄もクソもあるか。まぁ確かに家は山の上にあったけど…それに頂点にいたのは深山様だろう」
「そういう話ではないのですよ」
桃里が生まれ育ったのは人里からずっと離れた山の上、"深山"と呼ばれる巨大な蛇の神が尾根をなす森の中にあった。
"その昔、どんな山よりも大きくて、海まで続く川より長い大蛇の神が、その巨大な身を大地に横たえ眠るうちにいつしか山となった"。
これは人間たちの間で勝手に広まった昔話らしいがあながち間違っていないことを桃里は知っている。
なにせ深山は父の旧友、もとい喧嘩仲間の神だった。
実際の山や川には劣るものの、その巨体で繰り出される一撃は地鳴り地滑りを起こすほどだったと言われている。
とはいえそれも、もう千年以上前の話だ。今の深山は穏やかなもので滅多に人前に姿を現すことはなくなってしまった。
そしてそんな神ともやり合う荒くれ者の父の元にやってきたのが、都でも随一とされていた陰陽師の家の娘。それが母だった。
「寝物語を聴くつもりはない。それより今はこの国の話だ」
「故郷の成り立ちを忘れずにいてもらえてよかったです。…まぁそういうことで、伯爵家の三男ともなれば見栄のためにもお嬢を手中に収めたいところなんでしょう」
「別にこの国での地位などないぞ。里でもなかったけど。せいぜい見世物小屋の珍獣と変わらないと思うけどな」
「珍獣だからこそ欲しいのですよ」
とんだ言われようだとソファーに寝そべった桃里は、高い天井から釣り下がるきらびやかな電飾を見上げる。初めは衝撃的だったあれも随分慣れたものになった。
「…晴人」
「はい?」
「あの男の後ろにいるのはミアの…エバンスという家だろう」
「でしょうね」
セオドアから預かっていた書簡にはマシューの素性、そしてエバンス家との関わりも事細かに書かれていた。
「あの魔獣騒動にエバンスが関わっているのはわかってる。神楽の後からミアもめっきり城には寄り付かなくなった」
思案する桃里をよそに、晴人は書簡は机に置いて紅茶を継ぎ足す。温くなった茶を一口含み、普段は絶やすことなく笑みを象っている瞳を細めた。
「…ですがあの方たちもまた、誰かに使われているような気がするのは私の気のせいだと思いますか?」
「思わないな」
「ですよね」
起き上がった桃里はやはり行儀悪くあぐらをかいて、乱れた髪を背へと流した。その仕草が父に似ていると最近よくシロエに言われる。
「何よりおまえの勘は嫌なことほどよく当たる」
「この件はエヴァ様にも聞いておきます。とりあえずお嬢は爪の手入れでもしておいてください」
書簡を纏めて立ち上がった晴人はすっかりいつもの様子で桃里へ向くと、そっと黒髪に手を伸ばした。
「お嬢の婚礼の日は、盛大な宴とともに笑顔で迎えたいので」
「世話係からの開放を祝してか?」
「それ以外になにがあると?」
見かけによらず大きくごつごつした手のひらはいつも少し冷たくて、けれど桃里は密かにその手が好きだった。
どさくさに紛れて頭をすり寄せると、晴人は微かに柔らかい笑みを浮かべてからすぐに踵を返す。
僅だが見えてきた敵の尻尾を逃すわけにはいかない。
「晴人」
「まだ何か?」
扉の前では振り返った晴人に、桃里は挑発的に目を細めて口角を持ち上げた。
「餌にならいくらでもなってやるから、抜かるなよ」
「御意」
一礼してから出ていく背中を見送ってから、桃里は一人残った部屋を見渡す。
ここにきてしばらく。少しだけ感傷的な気分になったのは久しぶりに故郷の話をしたからだろう。
まだ髪に残る冷たい手のひらの感触を思いながら何となくそう思う。
しかしいつまでも浸ってはいられない。
桃里は母の形見である夜霧三日月を手に取ると、心を落ち着かせるようにひと呼吸ついてから静かに手入れに取りかかった。




