第61話 見合いの申し出
活気あふれる打ち合いの声や、剣のぶつかり合う音すら耳に届かなかった。
何が起こったのか理解できず思考が停止したまま固まっている桃里を前に、突然現れた男は手を握ったまま軽やかに続ける。
「気軽にマティと呼んでおくれ」
胡散臭いまでに白い歯を見せて笑顔を輝かせた男は、あろうことか桃里の手を引いてさらに腰を抱き寄せた。
桃里より頭二つぶんほど背の高い男からは甘い麝香の香りがして、ただでさえ嗅覚が敏感な桃里は強くなる匂い顔をしかめて鼻を抑える。
「離せ」
何もかもが鼻につきゾワッと背筋が粟立ち我に返った桃里は、ぐっと声を押し殺して回された手を振り払った。
「おっと、これは失礼。ミス・トーリは異国出身だったね。こういうのは慣れていないのかな」
すぐさま距離を取る桃里にも堪えた風もなく、両手を広げて肩を竦める仕草はどこか芝居がかっていてますます胡散臭い。
警戒心に染まった紅い瞳で見据えつつゆっくり後ろに後退ると、とんっと何かに背を支えられた。
微かに香ったのは嗅ぎなれた石鹸に混ざった柔らかいアシェルの匂い。
「…アッシュ」
誰より険しい目をしたまま、アッシュは桃里を庇うように一歩前に出る。しかしその眼差しとは裏腹に声音だけは落ち着いていた。
丁寧さにそぐわない底冷えするような淡々とした口調で形式上の挨拶を取る。
「ご無沙汰していますね、ブレイク卿」
「これはアシェル殿下。ご挨拶が後になり申し訳ありません。彼女の美しさについ忘れてしまっていました」
王族を前にしても悪びれることなく肩をすくめるマシューにも、やはりアシェルは動じずにさり気なく桃里の腕を引いてイーニアスへ預けた。
「構いませんよ。私も伯爵とお話するのは久々でしたし…このような場所ですから、どこの新兵かと思いましたので」
「ははは、新兵か。今日のためにスーツは新調したのですがね」
一見和やかな声音での応酬はぴりぴりと肌を刺し、その空気は徐々に稽古を続けていた兵士たちにも伝播していく。
周りの様子を察したアシェルはイーニアスに目配せして城の方を示す。
「何にせよ伯爵を迎えるのにこんなところでは。お茶を用意させましょう」
「ああ、そうしてもらえると有り難いですね。どうにもここは埃っぽくて。殿下のお召し物も台無しです」
アシェルはもちろん、桃里も朝稽古の時は兵士と変わらない簡素なシャツとパンツ姿だ。その上、今しがた稽古を終えたところでお世辞にも整った身なりとは言い難かった。
対してマシューは桃里の目から見ても高価そうな上物のスーツを嫌味なく着こなしている。
「イーノ、彼女を部屋へ。伯爵は私がお相手しましょう」
「いやいや、いいですよ。申し訳ないですが今日は殿下ではなくミス・トーリに用があって来たので」
再び向けられた視線に、桃里はぞっとしてイーニアスの手を引いた。
本当なら今すぐにでもすっ飛んで逃げたいくらいに薄ら寒かったが、それをすることは桃里の矜持が許さなかった。
「すまないが私は少し疲れた。なりもこの様なので先にここで失礼する」
あくまで冷静に。アシェルの所作を真似して片足を引く。毅然とした姿勢で踵を返した桃里は、イーニアスを引き連れて自室へと向かう。
訓練場から遠ざかってからもまだ二対の視線が向けられていることには気がついていたが、姿勢だけは崩さぬように顔を上げて前を見据えた。
「あーもう!何なんだあの男は」
「申し訳ありません。私にも何が起こったのか…。王妃様からも特には何も聞いてはいなかったですし、特に使者が来る連絡もなく。――晴人様は何かご存知ですか?」
成人祭も無事に終え、ようやく事後処理も済んで落ち着いたと思った矢先のこれだ。そもそも使者があるのであれば真っ先にアシェルに報告があるのが通常のはず。
部屋に戻って真っ先に手を洗いながら語気を強める桃里の憤りに、扉の前に立つイーニアスも困惑を隠しきれてはいなかった。
「近々こういうことになりそうだとは思っていましたが、まさかこんなに早いとは思わなかった。と言ったところですかね」
しかしそんな二人の困惑をよそに、晴人はいたって普段通りの飄々とした口調で答えた。
「おまえ…何か知っているのか?」
「知っているわけではないですよ。ただあれだけ派手に暴れていますからね。遅かれ早かれこの国の人間がお嬢に目をつけるということは予測していただけです。…もっとも、これはイーニアス殿も勘付いていたのではないですか」
話を振られたイーニアスは思わず言葉に詰まった。先日、成人祭前にセオドアが言っていた言葉が脳裏を過ぎる。
『僕ならまだマシだけどね。…やっかいな連中に目を付けられはじめているよ』
勘のいい桃里のことだ。ことが動くことは察していただろうが、さすがにこの事態は予想していなかったのだろう。
好き勝手言われて憤ったように窓の外を見やる桃里の後ろ姿と、彼女の服を用意している晴人を見比べてイーニアスは静かに口を開く。
「晴人様は、いいのですか」
感情を押し隠すように絞り出した言葉にも、晴人はただ小さく息を吐いた。それはまるで怒りを逃すもののようにイーニアスには思えた。
「いいもなにも、お嬢の婚姻に関する決定権は私にはありません。決められるとすればお嬢のお父上――お館様だけです」
「…ああ。そうだな…確かに、そうだ」
晴人の言葉に桃里ははっと何かに気づき目を見開いた。一瞬揺れたその瞳が緩やからに色を変えていく。
そこに先までの動揺はなく、むしろ悪戯でも閃いたように笑っていた。
「あの男の目的はわからないが、この私を娶りたければ親父の許しが必要だ」
「ですが桃里様のお父君は…」
遠い異国にいる桃里の父の許しなど到底得られるものではない。そもそも本来であれば城の客人扱いである桃里に一方的な求婚などできるわけがない。
しかしそんなことすら意に介さず、堂々と婚姻を求めてきたマシューは明らかに不穏だ。イーニアスの懸念に桃里はにやりと唇を歪めた。
「親父の命令は絶対だ。…それに、この私を娶ろうなんて五百年早い」
窓硝子に映った瞳は、反撃に揺れる淡い炎の色をしていた。




