第60話 朝稽古への乱入者
成人祭が終わり数日が経った朝。
桃里とアシェルは少し前までは日課にしていた朝稽古を再開していた。
小鳥の囀りも掻き消すような活気あふれる訓練は、先日までの浮き足立った雰囲気を引き締めなおしているようだ。
そんな城の兵士たちの稽古が行われている訓練場の片隅で打ち合いをする二人の姿を、イーニアスが側で見守っている。この光景も城の者たちにはすっかり見慣れたものになっていた。
「っと…!」
足元に飛んできた鎌鼬のような突風を地面を蹴って躱した桃里は、猫のように軽やかに宙を舞って着地した。
「まだだ」
しかし今度は着地点の地面がたわんで泥濘みのようにうねって足が取られる。
まるで意思を持っているかのように足に絡みついてくる土に桃里は露骨に舌打ちした。
「さかしい…!」
このままでは身動きが封じられる。そう判断した桃里は木刀を地面に突き立てて強引に足を引き抜くと、腕の力だけで体をひねってアシェルの方へ一足で飛んだ。
勢いのままにアシェルの足元に手をつくと、折り曲げた脚を屈伸の要領で反動をつけて真上に蹴り上げる。
「ッ…!」
すかさず後ろに顔を逸らしたアシェルは再び宙に飛んだ桃里に向かって左手に持っていた木刀を振りかざした。
「そんな大振りは当たらないぞ」
余裕の言葉とともに今度も躱した桃里は片手を伸ばして木刀を奪い取ろうとしてしかし、その冷たさに思わず手を引っ込める。
「冷たっ…!」
いつの間に魔法を使ったのか、アシェルの木刀は氷を纏った冷気の刃になっていた。
その凍った木刀が真横に振られると、今度は動きに合わせて氷の刃が飛来する。
「このっ…!」
丸腰の桃里は飛んできた刃の前に咄嗟に炎の壁を展開したが、そのうちのいくつかは溶けずに貫通してシャツと髪を一房裂いた。
「そこまで」
冷静な声が割って入ったのは攻撃を受けてなお臨戦態勢を取る桃里と、アシェルが次の詠唱をしようとした時だった。
「今日はここまでにしましょう」
落ち着いた声に二人の戦意が削がれたことを確認したイーニアスは、肩口が裂けてしまった桃里へ歩み寄り怪我がないことを確認する。
「今日は殿下の勝利ですね」
「…ぐう」
涼しい顔をしているアシェルに反して悔しそうに唇を尖らせ、桃里はすっかり元に戻っている地面から木刀を引き抜いた。
「やっぱり魔法を使われると私には不利だ。悔しいけど術の完成度も桁も違う」
「純粋な剣の力だけなら俺もまだ桃里の足元にも及ばないよ」
「でもその刀を取られちゃ意味がない」
桃里が作った炎の盾はお世辞にも完成度は低く、お粗末な出来だった。対して早々に得物を封じたアシェルの作戦は完璧な勝因となった。
「駄目だなこれじゃ。まだまだ修行が必要だ。やっぱり先に体術を磨くか…」
手合わせの際にアシェルに魔法を使うように持ちかけたのは桃里の方だった。
先の茶会の際に丸腰では上手く立ち回れなかったことと、相手が遠隔での魔法や呪術を使ってくる場合はかなり不利になるとわかってのことだ。
「明日また再戦だ」
木刀を薙いで振り返った桃里を見て、それまで普通に話していたアシェルの顔が当然さっと青褪めた。
「か……」
「か?」
「髪が!すまない!最後の攻撃で切ってしまった!」
白熱して気が回らなかったうえに怪我がなかったことに安堵していて遅れたが、まさか女子の髪を切ってしまうなんて。アシェルは焦って謝罪の言葉を繰り返す。
しかし当の本人は不思議そうに首を傾げる。
「髪なんてすぐ伸びるよ」
「そういう問題じゃないだろ!」
「真剣勝負をしろと言ったのは私なんだ。そんなことをいちいち気にされたらやりづらい」
だいたい、と桃里は一歩踏み出すと互いの鼻先がぶつかりそうな程に距離を詰めて指を立てた。
「本気でやれと言ったのに!最後の氷の刃もわざと逸しただろ」
「それは当然だ。怪我をさせるわけには」
「私は本気でと言った!」
「桃里だって真剣を持っていないのに俺だけ真剣勝負なんてできるわけないだろ!」
バチバチと二人の間に火花が散る。
それを見ていたイーニアスは溜息を零した。これはアシェルが正しい。第一女子の、それも好いている相手に怪我をさせるような本気の攻撃はアシェルでなくても無理な話だ。
「二人ともそこまでにしてください。桃里様も、術のお勉強でしたら晴人様になさってくださいね」
「ぐうぅ……」
もっともなことを言われた桃里は唸りながら木刀をぐさぐさと地面に突き立てた。稽古に熱心なのはいいが、これ以上はまた喧嘩になるのが目に見えている。
遠巻きに見ている兵士たちも、これまた見慣れた風景に微笑ましそうにしていた(当人たちはまったく気づいていないのだが)。
「殿下もそろそろ。執務の時間です」
「ああ、わかってる。――そうだ桃里。今日の夜、時間があれば」
イーニアスが両者の木刀を受け取り、アシェルが桃里に声をかけた時。
「やあやあ、素晴らしい手合わせだったね」
不意に割り込んできた軽い口調にそれぞれが声のほうを振り向いた。
大袈裟に拍手をしながら歩み寄ってきたのはアッシュグレーの髪を後ろに撫でつけた、派手なスーツ姿の見るからに軽薄そうな男だった。
男の後を門兵や使用人たちが焦った顔で追いかけてきていたが、男はそれさえ気に留めることはなく、訝しむ桃里の前までやってくる。
「初めまして、ミス・トーリ」
そして恭しくお辞儀をするとするりと桃里の手をとって、そしてその甲に唇を寄せた。
「ボクの名前はマシュー・ブレイク。君の未来の夫さ」
まったく何を言っているかわからず呆然とした桃里は後に、あれしきのことを回避できずに動揺したことを恥じると語った。
突然の来訪者とともに流れてきた雲が、それまでさんさんと降り注いでいた爽やかな朝の日差しを遮ってほんの僅かな陰を落とす。
それはまるで波乱の幕開けを告げるように、湿度の増した生温い風が吹き抜けていった。




