第59話 晴人
エヴァは膝の上で寝息を立てる桃里を起こさぬように身をかがめて、ソファーの足に張り付いていた小さな紙きれをつまみあげた。
鳥とも人ともつかない形の紙きれは触れたその瞬間に崩れ落ちる。
「まるで忠犬ね。見張っていたのかしら」
紙きれが消えてからさほど間をおかずに開かれた扉の先に立っていたのは、黒髪をひとつに束ねてスーツを着た晴人だった。
「来るなら今だろうと思いましたので」
「察しもいいのね」
部屋に入ってきた晴人は眠っている桃里の髪が黒色に戻っているのを確認して僅かに安堵の息を吐いた。
「やっと話してくれて助かりました。お嬢にあなたの話を振られる度にはぐらかすのは骨が折れていたので」
エヴァと晴人はこの国に来てすぐ、ハロルドの蠱毒を払った日から面識があった。
接触したのはエヴァの方からで、そのことに晴人はさして驚くこともなく淡々とこの城の状況を確認してきた。
それ以来もう何度もセオドアも含めた話し合いが秘密裏に重ねられてきたのだ。
「それは申し訳ないことをしたわね。けれどおかげで上手くことは進んでいる。…ただ」
「ただ?」
「少し気がかりなことも起きているのわ」
桃里にブランケットをかけた晴人は対面のソファーに腰を下ろした。
「一部の老人たちがいよいよ桃里に目をつけはじめたわ」
「まぁそうでしょうね。お嬢の性格や言動はともかく、血統だけで言えば喉から手が出るほど欲しいでしょう」
高い霊力を秘めた巫女と、強い妖力を持った鬼の娘。桃里本人は伺い知らないことだが、その出生に複雑な背景を持つ娘の存在は故郷でも最小限に留まるように隠し続けてきた。
それがこの国でもついに気づかれてしまった。
「異形とのハーフとまでは気付かれていないでしょうけど、不思議な力を持つ少女。器量も申し分ない。彼らは必ずこの国に繋ぎとめようとしてくるでしょうね」
「お嬢は物でも犬猫じゃありませんが」
低く呟かれた晴人の声にエヴァは同意するように目を細める。
「大切なお姫様だものね」
「大切な忘れ形見です」
微かな殺気を含む晴人の視線も軽くいなして、桃里の髪を撫でたエヴァは組んでいた脚を解いた。
「それで、アキオのことだけれど。この子はどのくらい知っているの?」
意図して話題を変えると晴人は一瞬眉を跳ねさせて桃里を一瞥したあと、深く眠っていることを確かめてから首を横に振った。
「…なにも。あなた以上になにも知りません」
「そう…。ならいつか、それを知る時がくるわね」
桃里は知らない暁緒の真実。晴人は遠くを見るように視線を浮かせた。それは遠く、海の向こうの果てを見るように。
「時が来れば。その時にお嬢を…桃里を支えてくれる者がいることを願っています」
その役目が自分ではないことを晴人はわかっていた。彼は桃里を護り導く存在である。その先は桃里自身が得たもので戦っていかなくてはいけない。
「私としては彼にいてもらえればと思っていますがね」
ふと向けられた視線にエヴァはふっと短い吐息を零す。
「それはこの先次第、でしょうね。…――さぁ、来賓者を見送らなければならないので私はそろそろ失礼するわ。あなたはこのままお願いね」
さらりと桃里の髪を撫でながら微かに口角を持ち上げたエヴァは、起こさないように頭をソファーへと降ろした。
「言われずとも」
短く返した晴人へはもう一瞥もくれず、エヴァは扉へ手をかける。するとバチッと静電気のようなものが走って手が弾き返された。
「…解いてくれるかしら?」
「これは失礼」
扉に張られていた結界は、さも今気がついた顔をした晴人が指を弾くと音もなく霧散する。
本当に慎重な男だと思う。しかしこの慎重さこそが、今も健やかに寝息をたてている少女を護ってきたのだろう。
最後に一度、扉の前で振り返ると、いつの間に移動したのか晴人は桃里の側にいて、ソファーから落ちてしまっていた手を拾いあげていた。
ブランケットの中に戻してやろうとしていた彼の手を無意識にだろうか、きゅっと桃里が握ったのが見えた。
その光景にエヴァはふっと瞳を和らげる。
「…あなたも今夜はゆっくりお休みなさいね」
「お気遣いありがとうございます。…おやすみなさい」
そうして控室を出ると既に帰りの来賓客たちがホールから出てきていた。
エヴァはさり気なくセオドアたちに寄り添うと何事もなかったかのように一緒に見送りへと赴いた。
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まるで岩のようだと思った。ずっしりと重いそれを持ち上げて、ああ、これは腕だったのか。そんなことを呑気に思う。
ほとんど見えていない双眸でぼんやりと眺めた腕らしきものからは、湿った土くれと僅かに錆びた鉄が混ざった臭いがする。
久しく見ていなかった。否、二度と拝むことはないと思っていた光は目が焼けるほどに眩しくて、空気を取り込んで軋んだ肺は今にも裂けそうだ。
しかしただそう思うだけで、痛みは特に感じない。感じるわけがなかった。
なぜなら自分は、すでに死んでいるのだから。
『――晴人、ごめんなさい…あなたをこんな風にしてしまって』
晴人が目覚めた時、目の前にいた女はぽろぽろと涙を流しながら何度も何度も謝ってきた。
もう必要もないはずなのに、身体は水を求めているのか勝手に喉仏が上下に動く。
『……あき、お…』
乾いた舌を引き剥がして辛うじて女の名前を紡いだ声は、本当に自分のものかと疑うほど酷く掠れていてほとんど音にもなっていない。
『晴人』
しかしその声は確かに届いたのか、するりと伸びてきた白い手に冷えた体が抱きしめられる。熱でもあるのかと錯覚しそうなほど、女の体温は高く感じた。
『あなたにしか頼めないの…だからどうか』
泣き晴らして赤くなった瞳が晴人を映した。自分と瓜二つの黒い瞳がまるで夜の水面のように揺れている。
『私の代わりに、桃里を導いてあげて』
名前を呼ばれて反応したのか、はたまたただの偶然か。ふにゃと小さな鳴き声が聞こえた。
定まらない視線を彷徨わせて辺りを見渡す。ゆらゆら揺れる蝋燭の火が眩しくて、細めた目を凝らしていると布に包まれた何かが蠢いた。
『と…、り……』
反射的に女の腕を払って塊のほうへと這い寄れば、その度にぎしぎしと関節が鳴る。
動きづらい身体を引きずって、ようやく覗き込んだ布の中で動いていたのはまだ生まれて間もない赤子だった。
『と…ぅ…り……』
うっすらと紅い産毛の生えた頭を硬い指先で撫でる。
『とう、り……とうり…』
ほとんど無意識に萎えた腕で赤子を抱きあげようとして、それを女が隣で支えた。
『桃里…そう、か……、もう、生まれて』
まだ目も開いていない赤子を見ているうちに、ようやくおぼろげだった思考が定まりはじめる。
一度は死んだ晴人を禁術を使ってまで生き返らせた双子の片割れ。暁緒はもう、決めているのだ。
『おまえは…』
――逝ってしまうのだな――
晴人の視線が赤子から暁緒へと移動した。そして悟る。これから先、自らに課せられた宿命を。
『…いや』
言葉を切った晴人に暁緒はなにも言わなかった。
『約束しよう』
必ずこの赤子を守ろうと。物心がつく前に母を失ってしまうこの小さな命が、いずれ成長し一人で生きていけるようになるまでに。それまでに自分の持てるすべてを伝えよう。
そしていつか、この子を隣で支えてくれる人が現れたら。その時は。
紅葉よりも小さい手が、きゅっと晴人の指を握った。
その力は思っていたよりもずっと強くて、小さくとも生きているのだと懸命に訴えてきているようだった。
『…んにゃ』
指を握ると安心したのか再び眠りに落ちていく赤子の様子に、晴人は強張っていた表情を微かに緩める。
(この手を離す、その時は――)
三章まで読んでいただきありがとうございます。四章から新キャラも登場しますのでよろしくお願いします!




