第57話 ひとりの時間
ホールを駆け出していったアシェルに意識を向けることもできず、ミアは設置されたベンチに座り込んでいた。
隣に座っている母も怯えたように歯の音を鳴らしていて、そんな母の背に手を当てている父の手もまた小刻みに震えていた。
(なんですの…この胸のざわつきは…まるで、…まるで、すべて見透かされたような…)
あの女が踊っていた時、一度だけ目が合った。
紅い、まるで血のような紅い瞳がミアを捉えてうっすらと笑ったのだ。
(――腹立たしい…!)
憤りと苛立ちが込み上げてきて胸がざわついてしかたない。しかしそれを吐き出す術もなく、ミアの顔はみるみる青褪めていく。
(これは本当に気分が悪いだけ…?いいえ、ちがう、これは…)
――恐怖。
ふっと唐突に意識が飛んだ。いや、飛んだように思っただけで、ミアの心はむしろクリアだった。胸に巣食っていた何重にもなる黒く淀んだ感情が不意に消えたのだ。
正確には消えたというのとは少し違う、ミアの心は呑み込まれた。
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
ふと頭上に影が落ち、かけられた声にようやく意識を浮上させる。自分が落ちていたと気づいたのはその時だった。
「…ええ」
ほっと息を吐いたミアの緩慢に持ち上げられた顔はもう青褪めてはいなかった。気だるさを纏いつつもどこか涼しげで、その表情はまるで人形のように穏やかだった。
「大丈夫ですわ」
あの女は危険だと、頭の中で唸るような声が聞こえた。
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誰もいないのをいい事に桃里は肘置きに腕をついて寝そべるように座っていた。
晴人とシロエにはアシェルたちと一緒にホールに戻るように命じている。今は向こうの様子が気になった。クロトを欠いている以上、桃里の使える目は少ない。
(さて、どう出るかな)
先程の神楽で桃里たちは大きな破魔の結界を張った。
城を覆いつくすほどの結界は、周りからの侵入を阻むものではなく内側にいるネズミを炙り出すためのものだ。
神のために清める舞い。その清浄すぎる空気は蠱毒を生み出すほどの術者には逆に毒になるだろう。
(本人がいるとは思えないけど)
その末端でも構わない。尻尾さえ掴めば後はこちらのものだ。そしてその尻尾は何となく見えている。あくまで切り捨てられなければ、の話ではあるが。
「あの魔獣はまずったな」
茶会の日、桃里を襲った魔獣。最初はアシェルを狙ったものが予定が外れてああいう形になったのかとも思ったが、あの獣たちは明らかに桃里に殺意を向けていた。
(とはいえ黒幕とも思えない)
あの娘でさえおそらくは末端。彼女にいくらか魔法の心得があったとしても、あれほどの画策は無理だろう。
(本命は他にいる)
赤い髪をかきあげて桃里は真っ暗な窓の外を見やる。そこは夜の帳が広がるばかりで昨夜のような不気味な気配はなく、少し離れたホールから賑やかな声が微かに届いてくるのみだ。
ガラス窓に映る紅い瞳を見つめる。柘榴のような瞳と炎のような赤い髪。どちらも父と瓜二つの色。
「父さん…」
物理的な距離だけではなく、心さえもずいぶんと遠くに来てしまった気がした。桃里は今、異国の地で異国の服を身に纏い、真っ暗な闇をただ見つめている。
「父さんの目的はこれだったのか…それとも」
未だ読めない父の真意。里は、家族はどうしているのか。この国に渡って直に半年近くなる。
怒涛の日々で忘れていたが、初めて気づいた胸の空洞は目を閉じることで強引に塞いだ。
感じないわけではない。ここには幽斬り丸もあり、アシェルが持つ勾玉もある。それは遠い遠い異国の地でも、唯一父と故郷を感じられるものだった。
(大丈夫)
まだやれる。いつか帰れる。そう念じて肘を落とす。今は少し、疲れていた。
歌が聞こえる。優しい声と柔らかい旋律。髪を撫でてくれるあたたかい手の感触。
使い切っていた霊力が少し満たされた気がして、桃里はゆっくりと瞼を持ち上げる。ぼやけた視界の先に真っ先に飛び込んできたのは金色の髪。
「アッシュ…?」
陽の光を集めて編み込んだような金色の髪に、涼しい氷のような青い瞳。ああ、これはきっと夢だ。なぜならアシェルはまだ祭りの最中のはずだから。
「そんなに似ているかしら?」
止まってしまった歌の代わりに耳に届いたのは艶のある大人の、女性の声だった。
「…その声」
それまでまどろんでいた意識が一瞬で覚醒する。飛び起きた桃里は手を宙に浮かせたまま少し驚いている相手を見据えた。この声は知っている。
「…あなたは、アッシュの」
「ええ。母のエヴァよ」
白磁のようなすらりとした手を膝の上に置き、優雅に微笑む彼女は赤い口紅がよく似合っている綺麗な女性だった。
「こうして話をするのは初めてね。よろしく、桃里」
しかしふっと目を細める仕草や面立ちはやはりアシェルの面影を感じる。
「ああ…まぁ一方的に話しかけられた、いや。脅されたことはあるけどな」
「やっぱり気づいていたのね。…なんて、わざと気づかれるようにしたのだけれど」
昨夜、桃里を襲った鳥たちの声。
あれは鳥の声帯を使ったもので雑音混じりの不気味な音は酷く聞き取りづらかったが、あれは確かに女のものだった。
「目立つことはおよしなさいと言ったのに。話に聞いていた通り、随分と肝の座ったお嬢さんだったわ」
「やめろと言われるとやりたくなる性分なんだ」
ソファーに並んで座りながら桃里は紅い髪に指を通す。
「さっきの踊り、神楽と言ったかしら。とても美しかったわ。そしてなにより、見事な結界だった」
「…さすがに察しがいい」
「この三年、私もただ部屋に籠もっていたわけではないのよ」
エヴァは机の上に置いていた一冊の本を手にとった。随分と色褪せていて古びた本は、開くとぴりっと紙が鳴いた。
内容は予想通り、呪術に関してのことがこちらの文字でびっしりと書き綴られていた。
「これを一人で?」
「ええ。お義父様が倒れられてから調べ始めたものよ。部屋にはまだ何十冊もあるわ」
「よくここまで…」
ろくな書物も文献もない中で、これだけの情報を集めるのはどれほどの時間と労力がかかっただろう。
本を閉じた桃里はソファーの上に正座をして、そして静かに三つ指をついた。ここに来てから誰にも見せたことのない所作は故郷の最大限の礼だった。
「ご挨拶が遅れました。天使 桃里と申します。お母上に断りなく結界を張ったことはお詫びします。でも…もし私でもまだ力になれるなら」
顔を上げると再び青い目と視線が重なる。真っ直ぐに見据えてくる氷の瞳はアシェルのものよりもずっと深い湖のようで、読みきれない色をしていた。
「あなたがこの国に来てからのことは知っているわ。息子たちとのことも、そして…私の潔白を訴えてくれていたことも」
伸ばされた指先がそっと頬に触れる。冷たそうに見える白磁の手のひらはその見た目に反してとても温かい。
「ありがとう、桃里。あなたはやっぱり…あの人の娘なのね」
「あの人…?父のことか?」
ハロルドからの口伝で父のことも多少は伝わっているのだろうと思ったが、揺れたその眼差しが少し引っかかる。
「…いいえ」
そしてその予感は的中する。
「あなたの、お母様のことよ」
流れた紅い髪が頬に触れた手に流れ落ちる。
瞠目する真紅に笑いかけるエヴァはどこか切なそうな、慈しむような目をしていた。




