第56話 大役を終えて
我に返った途端に押し寄せてきた人波を抜ける途中、ふと視線を感じた桃里が僅かに振り返えると、青い氷のような瞳と目があった。
(あれは…)
遠目にもわかる。艶やかな赤いドレスに一つに纏められた輝くような金色の髪。凛としたその女性は騒がしいホールの中にあってただ、静かに桃里を見つめていた。
瞼を伏せた桃里は顔を前へと戻し、後を追ってくる人々から逃れるように退室する。
すると見計らっていたかのように扉の外にはセオドアが待っていた。
「いやぁ、本当に素晴らしかった。正直、想像以上だったよ」
惜しみない称賛とともに差し出された手を有り難く取ると、桃里は少しよろけながら歩みを緩めた。
「おっと。大丈夫かい?」
「…少し疲れた。でも期待に応えられたならよかった」
答える桃里の額は薄っすらと玉のような汗が浮いていて、肩に流れた髪はじんわりと赤みを増して変色していた。
「あ、まずい…。部屋へ戻ってもいいか」
「もちろん。エスコートするよ」
控室として与えられていたホール近くの部屋へ戻るや否や、桃里の容姿に変化が起こる。
束めていた髪がひとりでに解けたかと思うと、ぶわりと漆黒から真紅へと変わった。
「へぇ…話には聞いてたけどその姿もとても麗しいね」
真紅の髪に額から伸びた細い角。尖った耳は桃里のもう一つの姿だ。
うっかり絨毯の上に落ちてしまった髪留めをそっと拾ってからどかりとソファーに座った桃里は、そこでようやく大きく息を吐いた。
「なけなしの霊力を使い切ってしまったから抑えがきかなくなった」
「あっちは偽りの姿なの?」
「あれも私。でもどっちかと言うと元々私は父親似なんだ」
晴人によると桃里の持つ霊力と妖力はおそらく四対六で僅かに妖力が勝っているらしい。
そこでまだ上手く変化を調節できなかった桃里のために母親が細工を施し、普段は霊力優位の人の姿を保てるようになってる。
そのため霊力が切れたり妖力が昂ぶると、必然的に本来の遺伝である父親の姿が表に出てしまうのだ。
「なるほどね。まぁ疲れただろう、お茶を持ってこさせよう」
「うん、ありがとう」
言い残して部屋を後にするセオドアはいつも自然で、こういった時でも言及してこないのが彼のいいところだと桃里は思っている。
彼は自分の目で見たものや耳で聞いたものを基準としていて、合理的かつ論理的に考える人だった。
「さ、千早は脱いでくださいね、お嬢」
「袴も脱いじゃって脱いじゃってー。もうお着替えしちゃうよ!」
セオドアがいなくなると、いつの間にやらさっさとお気に入りのメイド服へ着替えていたシロエに着物をひっぺがされる。晴人の前でもお構いなしだ。
「あーもう今日は寝たい!すぐ!今すぐ!」
「ダメ!湯浴みが先!」
明日でいいだろうと物臭なことを言いソファーに転がったまま、シロエに追い剥ぎよろしく着物を剥がれる。
そのとき、ノックと同時に扉が開かれた。
「桃里!さっきの、は……」
開け放たれた扉の前に立っていたのはまだホールにいるはずのアシェルで、それを迎えた形の桃里は中途半端な着替えの最中だった。
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「――すまなかった」
「まったく、レディの部屋に断りなく押入るなんて言語道断だよ」
扉の前で正座をさせられたアシェルの向かいで、セオドアは桃里を背に仁王立ちしていた。
その間に簡素な白いワンピースへと着替えさせられた桃里は、ひょこりとセオドアの背中から顔を出してアシェルを覗く。
「よっと。兄上もそのへんにしてやってくれ、別に大したことじゃないよ」
どうにも世間とズレているこのお嬢様に、セオドアは肩を竦めて振り返る。それを確認してからアシェルも恐る恐る立ち上がって顔を覗かせた。
お茶を手づから運んできたセオドアの前を全速力で走っていったアシェルが、ノックもそこそこに桃里の控室へ飛び込んだのはつい今しがたのことだ。
「言ってきかせてはいるんですけどね。何せ見ての通りの無作法なじゃじゃ馬なので」
呆れた声を出しているのは脱ぎ散らかされた着物を畳む晴人だ。
「お嬢はお屋敷ではよく裸で走ってたもんね〜」
「はだっ…」
「……か?」
思わず詰まったアシェルの言葉を引き継いで、セオドアはまさかと言った顔で桃里を見やる。
当の本人は何食わぬ顔でソファーにふんぞり返って紅茶を一気飲みしていて、その姿は改めてセオドアたちが知らないタイプの女性だと思う。
「一応確認するけど、君たちの国の女性はみんなそんな感じなのかい?」
「まさか。お嬢だけですよ。お嬢の母君も…まぁ多少粗野なところもありましたが、もっと女性らしい方でしたよ」
「桃里ちゃんのお母様か…どんな人か気になるところだね」
先程の話もあり桃里の母親という存在につい興味が湧き、セオドアにしては珍しく訊ねてみるも桃里は軽くはぐらかすようにアシェルに目を向けた。
「そういえばさっきアシェルにそっくりな人を見かけた。あの人はおまえたちの母親じゃないのか?」
余計なことを言ってしまったと察したセオドアはそれ以上は続けずに、桃里の言葉に相槌を打つ。
「ああ。赤いドレスならたぶんそうだね。ちゃんと紹介しようと思ったんだけどなかなか時間がなくて。後で会わせるよ」
成人祭の前に挨拶をしたいという桃里の申し出を断ったのはアシェルたちの母親、エヴァだった。
一応その件は隠して今は忙しいからまた今度と伝えたが、彼女はどう捉えていただろうか。
「それより時間と言えば、いいのですか?」
「何がだい?」
「若様たちは戻った方がいいのでは。まだ祭りの最中でしょう」
晴人の言葉で我に返ったのはアシェルだ。慌てた様子で改めて桃里に向き合うと、握りしめていたエルダーを彼女に差し出した。
「これを返そうと思ったんだ」
「それはアッシュにあげたものだ。えっと…ぷれぜんと、ってやつだから返さなくていいよ」
「え、あ…、え?」
完全に困惑しているアシェルの隣でセオドアも僅かに首を傾げる。
贈り物にケチをつけるつもりは微塵ないが(ましてや彼女からの贈り物ならこの弟は何でも喜ぶ)、何の飾りっ気もない枝葉は誕生日プレゼントというにはいささか質素にも思えた。
「それはお守りだ。私の霊力を込めてあるから、葉を千切ってアッシュの大切な人にでも分けてくれ。きっと災いから護ってくれる」
ふわりと微笑んだ桃里の表情は粗野と呼ぶにはあまりに正反対の、とても繊細で柔らかいものだった。




