第55話 祝福の神楽舞
そこにいる誰もが呼吸を忘れていた。
小さな鈴から鳴り響く清らかな音色はホールだけではなく城中へと響き渡り、果ては城下町へも届いていたと、後にレオは言っていた。
人々から溢れ出した数多の雑念が混ざり合い淀んでいたホールが今や、嘘のように澄んだ空気で満たされている。
まるで心を洗うような鈴の音が鳴る度に、人々の視線は流れるような指先を、髪を、足先を見つめてそして。
その気高く燃えるような真紅に注目する。
神聖な静寂に包まれる中で、ぽたりと一粒の雫が大理石に落ちた。
ホールの片隅で呆然と立ちすくむミアとエバンス公爵夫妻は、額から垂れる汗にも気づかずかたかたと震えていた。
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ダンスタイムも落ち着いた頃、それまで別の男と踊っていたミアは優雅にお辞儀をしてアシェルの元へと戻ってきた。
「殿下」
「ああ、お疲れ様。素敵なダンスだったよ」
正直、見ていなかったのはアシェルを囲む客たちの姿を見れば一目瞭然だろうが、それを口に出すほどミアも愚かではない。
今日訪れた来賓客は男女問わずに祝辞を理由に、少しでもアシェルのお眼鏡に叶おうと寄ってきているのだ。
「ありがとうございます。ですが少し疲れてしまいましたわ。あちらで休んできてもよろしくて?」
「構わない、ゆっくり休んでおいで」
いてもいなくても問題はない、という本音はもちろん隠してミアが母親の元へ行くのを見送ると、それまで緩やかに続いていた音楽が不意にやんだ。
何事かと辺りを見渡すと、他の客たちも自分と同じようにざわつきながら訝しんだ視線を巡らせている。
その時だった。
凛、となにかの音が鳴った。
導かれるように音のした方へ視線を向けると静まり返ったホールの入口に立っていたのは他でもない、桃里だった。
見慣れない着物に身を包み、手にはこれもまた見慣れない物が握られている。
それがベルだとわかったのは彼女が小さく手首を揺らすと、りんっと涼やかな音が響いたからだ。
伏せられていた瞼がゆっくりと持ち上がり、紅いガーネットのような双眸が現れる。
ベルの音に合わせて一歩、静かに踏みだした桃里を見てそれまで各々自由に立っていた人々がまるで示し合わせたかのように割れていく。
人波を割いて、気づけばホールの中央に立つのは桃里だけになっていた。
その少し後ろに控えた晴人は棒状の物を携え、シロエは植物の枝を掲げている。
始まる。
なんとなくそう察した瞬間、一際大きな音が響いた。
まるですべての邪気を払いのけるように、空気を切り裂いた腕の動きに合わせてベルの音が城内に響く。
晴人が奏でる楽器(後にそれは横笛というものだと聞いた)の音色に合わせて上へ下へ、右へ左へ。
流れるような四肢の動きに合わせて黒い髪が宙に靡いた。
まるで御伽話の妖精が飛び回るようにも女神がハープを奏でているようにも思えるもしかし、そのどれとも違う。
たった一人で人々の視線を一心に集め、まるで何かに祈るように踊っている目の前の少女を言い現す言葉が見つからない。
まさに孤高。それほどまでに今の桃里は、ただだだ気高く美しい。
そんな言葉にできない美しくも厳かな舞いは、天にも届きそうなほどであった。
(なんで…いつの間にこんなことを)
はっと我に返ったアシェルが咄嗟に見たのは何か知っているであろう腹心のイーニアスだ。
すぐ後ろに控えていた彼はしかし、自分と同じように目を見開いて桃里を見つめている。
聞きたいことはたくさんあったが、確かに今は一瞬でも視線を外すのが惜しい。
アシェルは再び舞い踊る桃里へと青い瞳を向けた。
広いホールの中央で一人舞い続ける桃里は、アシェルの知らない顔をしていた。
強さの奥に僅かな愁いを宿した眼差しに、結ばれた薄い紅の引かれ唇。普段は見せないその表情はどこか神聖な、触れてはいけない孤高ものに感じる。
(…なんだ、少し体が軽くなった気がする)
ひとつ音が鳴る度に内側にあった澱が溶けて消えるような感覚がする。
刀を振って蠱毒を斬り伏せた姿とはまた違う力強さ。
繊細な舞いの終わりを告げたのもまた、はじまりの時と同じ音色だった。
見ていた者には永遠にも思えたであろうその一瞬、ホールに響いたのは破れんばかりの拍手の音だった。
喝采が響き渡るホールの中央にいた桃里は、シロエが持つひと枝とベルを交換すると静かにアシェルの元へと歩み寄った。
まだ何が起こったのか理解できずに佇んでいたアシェルは、目の前に来た少女に息を呑む。
ここにいるのはやはり見慣れた少女の顔ではなく、うっすらと三日月を描いて微笑む表情はまるで玉座にあるシルフの女神のようだった。
「祓え給い、清め給え。守り給え、幸え給え」
それは異国の言葉だった。桃里の口から初めて聞く異国の音。意味は当然わからなかったが、それは自分のために贈られたものだという感覚はあった。
金糸の頭上に掲げられていた植物はそのままアシェルに手渡される。
呆けたまま受けった枝に視線を落とすと、それは一見なんの変哲もないよくあるエルダーと言う名の植物だった。
呆気に取られているアシェルを気にすることなく、桃里は柔らかい微笑みを浮かべた。
「アシェル殿下に幸多からんことを」
今度はちゃんとこちらの言葉だった。それだけ言い残すと、桃里は集まってきた観衆の合間を髪をなびかせて難なくすり抜けていく。
桃里たちが去ったホールはその後もどこか暖かく、耳には美しい音色が残っていた。




