第53話 不穏な声
いよいよ成人祭を明日に控えた夜。
来賓客を迎える準備のため昼夜問わず忙しなくどこか浮き足立っていた城内も、今夜ばかりはほんの少しの緊張感を残しつつようやく落ち着いた空気だった。
桃里は晴人やセオドアと最後の打ち合わせを済ませてから、僅かに重い足取りでアシェルの執務室へと向かっていた。
城へ来てから約四ヶ月。さして行動の制限をされていない桃里にとっては、この城ももうすっかり自分の家のように慣れたものになっている。
自室にしている二階の客間から三階にあるアシェルの執務室までは長い廊下と螺旋状の階段で繋がっていて、決して近くはないが慣れてしまえば迷うこともない。
桃里は明かりもまばらな薄暗い廊下を一人歩いていた。
(いよいよ明日だ)
明日の成人祭では桃里は神楽を舞う。
人前で舞ったことは何度かあったが、それはあくまで故郷での小さな祭りでのことで、話に聞いていた母のように大舞台に立ったことがあるわけではない。
大勢の、それも見知らぬ国の人々の前で舞うことにさしもの桃里も緊張していた。
部屋で一人になるとどうしてもそわそわしてしまい、これが緊張というものなのかと自覚するとますます腰が落ち着かなくなった。
そんな桃里にジュリアが用意してくれたお茶もあまり効果がなく、どうしたものかと天井を仰いだ時。
ふとアシェルの顔が見たくなったのだ。
なぜそう思ったのかはわからないし、アシェルにはさぷらいず、というもののために神楽のことは隠しているので行ったところで突然訪れた理由は話せない。
それでも彼の顔を見れば少しは落ち着ける気がしたのだ。
――オマエ、ハ、
静寂の中、それまではこつこつと大理石を叩くブーツの音だけが響いていた廊下に不意に無機質な雑音が混ざった。
『メ、ダチ、スギタ』
鼓膜にまとわりつくような粘着質で途切れ途切れのその音が人の声だと気づいた瞬間、ぶわりと髪を逆立てて桃里は背後を振り返る。
しかしそこには誰もいない。廊下は変わらず静まり返っていて人の気配も一切ない。
そもそも普通の人よりも優れた五感を持つ桃里に気取られずに背後に立つなど、そう簡単にできるわけがない。
緩みかけていた気を締めなおして改めて周りを見渡すも、やはり人はおろか何の気配も感じない。とはいえ先程のあれが気のせいだとは到底思えなかった。
(なんだ、今のは)
警戒したまま辺りに視線を巡らせるさなか、窓の外で、ほうっと野鳥が鳴いて羽ばたいた。
ほとんど脊髄反射でそちらへ意識を向けるもそこにあるのは真っ暗な闇だけで、鳥の姿さえもう見当たらない。
「ッ…!?」
だが次の瞬間、ばさりと先程よりも大きな羽音が響くや否や、大きな窓を覆い尽くすほどの複数の光がびっしりと浮かびあがった。
硝子を引っ掻く不快な音に何対もの不気味な輝き、それは群れをなした鳥達の目だった。
『カエ、レ』
『オニ、ノ、ム、スメ』
『カ、カワ、ルナ』
『ツ、ギ、オマ、エダ』
クアっと開かれた嘴から真っ赤な舌を不自然に突き出して、次々発せられる吃音混じりの人の言葉。
大きく見開かれた精気のない瞳は、焦点が定まっていないのに異様にぎらつき、そのちぐはぐさが妙に生々しく余計に不気味さを増していた。
そんな鳥たちはどこも見ていないようで、すべての視線が確かに桃里に集まっている。
鳥の姿をした妖は見慣れている桃里ですら理解を超えた状況に思わず鳥肌が収まらない。
代わる代わる窓硝子を激しく叩きながら、狂ったように何度も繰り返される不快な言葉。窓硝子を引っ掻く爪の音。ぶつかっては弾かれていく羽音。
絶え間ない騒音の中に不意にピシッと亀裂が走る音が混ざり、あわや硝子が破れるかと思わず顔を覆う。
しかしそれと同時に、まるでふっと霧が晴れるように鳥達は瞬きの間に姿を消した。
「……――はっ」
しばらく呆然と窓の外を眺めてから、ようやく桃里は詰めていた息を吐きだして構えを解いた。
今のはいったい。
桃里は一度目を閉じて、そして改めてその紅い瞳を窓の外に向けた。
「…今のは…女、か?」
身の毛もよだつほどおぞましい光景ではあったが、それで怯むだけの桃里ではない。
吃音があり聞き取りづらく無機質でありながらどろりとした質感の声だったが、桃里の耳はその声質から女の物だと当たりをつけた。
(薄々感じてたけど…狙いはやっぱり私、ということか…?)
ならばむしろ都合がいい。向こうから出向いてくれるのであれば探す手間も省ける。神楽を舞うと決めたときから餌になる覚悟はもうできていた。
桃里は闇を睨みながら薄い唇を微かに歪める。
「だったらもっと目立ってやろうじゃないか」
嵐の前の静けさというものだろうか。先までの緊張とは違うざわめきが桃里の胸を波打たせる。
何かが大きく動き出す。直感的にそう思った。
(思い通りにはさせない)
廊下に佇み挑むように闇を見据える桃里の姿を、少し離れた木の上から鳥の眼がじっと見つめる。
月の隠れた宵闇で、ほうっとまた鳥が鳴いた。




