第51話 大切なひと
お湯の入ったポットを片手に戻った桃里は意外と慣れた手付きでお茶の用意をしていく。
少し時間を置いてからティーカップに注がれたお茶は深みのある黄緑色だ。
煎茶というらしいそれは紅茶とはまったく違った香ばしさと少し渋みのある味わいで、初めて飲むアシェルの舌にもよくあった。
「…桃里、これなんだが」
温かいお茶で一息ついてからアシェルは机の端に追いやられていたマフィンを示す。
「ああ…昨日リヴィと作ったんだ。初めてだったからあまり上手くはできなかったけど」
「美味しかった」
「へ?」
本来はアシェルの分になるはずだったのだろう。しかし目の前にあるのものはまだ未開封だ。にも関わらず味の感想を言ったアシェルに桃里は目を瞬かせる。
「さっき兄さんが持ってきてくれて食べたよ。その時に聞いたんだ。桃里が昨夜、俺を探していたのはこれを渡そうとしていたからだって」
「あ、あー…いや。…うん」
テーブルを挟んで向かい側に座る桃里は居心地が悪そうにもぞもぞとしてから再びティーカップに口をつけた。
「ずっと話せてなかったし、アッシュも忙しそうだったから…疲れたときは甘いものがいいとリヴィが教えてくれて」
「それでわざわざ作ってくれたのか…すまない」
「ううん。私が勝手にしたことだ。アッシュが元気になってくれたらいいなと思って…」
健気に菓子を作ってくれている間に、自分は娼館に行っていたという事実が更にアシェルにのしかかってきて心的ダメージが大きくなる。知らなかったとはいえ我ながら最悪だ。
「でもそうか…美味かったか」
しかし当の桃里は嬉しそうな、どこか照れくさそうな表情で笑うとお茶のおかわりを注ぐ。
「今度はもっと美味いのを作るよ。アッシュはあまり甘いのが得意じゃないと聞いたから、何か好きなものがあれば教えてくれ」
そういえばさっき食べたマフィンは今まで食べてきたものより甘さは控えめで、微かにカモミールの香りがしていた。あれは本当に自分を労って作られたものなのだと理解する。
「あ、でも…人の家で勝手なことをするのは控えるよ。ちゃんと断りもいれる。だからその…」
そこで言葉を切った桃里はそれまでの勢いが嘘のように俯いてそして、おずおずと持ち上げられた双眸は微かに揺れていた。
「…まだ友達でいてくれるか?」
今度こそアシェルは言葉を失った。
「アッシュが嫌がることはしない、し、怒るようなこともしないから…。だから友達は、やめないでほしい…」
いつもは明るく、時に図々しくて。しかし芯のある凛とした声が今は消え入りそうなほどに弱い。
気ままで自由な風のようでいて、でもしっかりとしたところもある少女。しかし今は本当にただの、年相応の女の子に見えた。
「やめるわけないだろ!」
思わず立ち上がったアシェルの張り上げた声が部屋中に響き渡る。しまったと思い慌てて取り繕うとするも桃里はきょとんとしていて。
「やめるわけない、桃里は、俺の大切な…」
そこまで言って言葉を切る。大切な人に変わりはない。けれど自分にとっての彼女はもうただの友人ではなく。
「…友達だよ」
アシェルは自分の気持ちを押し込めて微笑みながら、小さな頭に手を伸ばしてふわふわした黒髪を優しく撫でた。もうこれ以上、桃里を泣かせたくなかった。
「ほんとか?」
「ああ、ほんとだ」
「っ、よかった」
ぼろりと大粒の涙が紅い瞳から零れ落ち、思わぬ事態にアシェルはぎょっとして手を引いた。そういえば以前も少し泣きそうになっていたことがあった。あれは魔獣事件の、髪留めを失くしたときだ。
「泣くな、桃里。泣かないでくれ…」
テーブル越しに体を屈めて黒髪を抱き寄せる。彼女が泣くのはいつもアシェルに関係している。つまり泣かせているのはいつも自分だ。
「泣いてない!…でもっ……」
彼女は子供のような泣き方をする。まるで置いていかれることを怖がるように、手を離されることを拒むように。
「…アッシュに嫌われたら、淋しい」
ああ、なんて愛おしいんだろう。ますます募るこの想い。
けれど彼女は、きっとまだ恋を知らない。そしてそれはアシェルもまた同じで、桃里に出会うまで知らなかった感情だった。
「…大丈夫、嫌いになんてならないよ。絶対に、ならない」
なれるわけがない。だからこの気持ちは大切にしまっておこう。
これほどまでに自分を求めてくれる彼女にはこの想いは知られないようにしよう。桃里が求める、友人に徹しよう。なぜならこれは。
(叶わない恋だ)
結局アシェルは桃里の隣に改めて座りなおし、いつもより目を赤くした彼女の頭を撫でていた。こうしているとまだ幼いころのオリヴィアを思い出す。
「…またみっともないところを見せてしまった」
ずびっと洟を啜った桃里は今朝と同じようなぶすくれた顔をしているが、それは彼女自身に向けてのものだとわかる。
「おまえといると情緒が狂う」
その言葉に逐一情緒を狂わされているのはアシェルの方なのだが、それはおくびにも出さずに頭をぽんぽんと撫でた。
「考えてみたらいきなり知らない土地へ来たんだ。不安なことも多くて当たり前だ」
従者と一緒とはいえ生まれ育った国から突然引き剥がされて、ろくなアテがあったわけでもない。
その心情はこの国しか知らない、離れたこともないアシェルには想像も及ばないものだった。
「不安がなかったと言えば嘘になる。でもここに来てたくさんの人に出会った。ご祖父上にも会えたし…レオにエラ。兄上やリヴィに、イーニアス、ジュリア。それから……アッシュ。おまえと出会えた」
アシェルの肩に頭を預けていた桃里は赤いうさぎのような瞳でちらりと伺うように見上げてくる。
「アッシュがいたから、もう不安じゃなくなった」
そんなはずはないとわかっていた。けれど虚勢だとも思えなかった。少しでも桃里の力になれるなら、この小さな体を少しだけでも支えることができるなら。
「俺もだよ。桃里のお陰で今の俺がある。だから…ありがとう、桃里。この国に来てくれて。マフィンも、本当に美味しかったよ」
ふわっと咲いた大輪の花のような笑顔を独り占めにしたい、なんて気持ちは見ないふりをして、アシェルはアイスブルーの瞳の奥に熱を閉じ込めて笑い返した。




