第50話 冷え切ったマフィン
成人祭の来賓者リストを手にアシェルの元に訪れたのはセオドアだった。
普段は一日それぞれの仕事をしているため行き来することはあまりなく、こうして弟の執務室まで来たのは久々だ。
「入るよ、アッシュ」
ノックとともに部屋に入ったセオドアは、扉を開けた瞬間に感じた重苦しい空気に思わずたじろいだ。
「ええ…一体どうしたんだい?」
「…ああ、兄さんか」
山積みされた書類の隙間から顔を上げたアシェルは、一応仕事は進めているようだが明らかに負のオーラを纏っている。
それほど負担をかけてしまっていたのかと、セオドアは少し慌てて机に歩み寄った。
「大丈夫?酷い顔色だ」
「何でもない。ちょっと色々…溜まってるだけで」
言いながらアシェルは手元の一枚に印をして、そしてついと青い瞳を逸した。
その視線を見逃すセオドアではない。手に持っていた書類を脇に置いて、くいっとアシェルの顎を取って顔を上向かせた。
「嘘。兄さんに通じると思ったかい?」
顔を固定されたままそれでも限界まで視線を逸らすアシェルに、セオドアは小さく息を吐いてから手を放す。
「とりあえず少し休憩だ。お茶にしよう」
応接用のソファーに強引に引っ張ったアシェルを座らせ、一旦部屋を出てメイドにお茶の用意をさせてきた。
「さあ、いただこうか」
湯気に乗って漂う柔らかい香りの紅茶と、その横には少し不格好なマフィンが添えられている。
これは昨夜、桃里が持ってきてくれたものだが、どうせこの弟は大事にしまっているのだろうと自分の分をおすそ分けした(以前クッキーをとっておこうとしたことはイーニアスから聞いている)。
「ん、美味しいね。リヴィと作ったと言ってたけどあの子はろくに料理なんてできないし、これはほとんど桃里ちゃんが一人で作ったんだろうね」
「………は?」
朝から何も食べていないとはメイドからも聞いていたが、二人しかいないからかアシェルはマフィンを片手に大口を開けたまま間抜けた声を洩らした。
「もらっただろう?昨日僕のところに持ってきてくれたときにおまえを探していると言っていたよ」
ぼとり、テーブルの上に落ちたマフィンを見下ろしてアシェルは固まってしまった。
何か余計なことを言っただろうかと思ったのも一瞬、察しのいいセオドアはくつりと含んだ顔をする。
「僕とジュリアの分と、イーニアスにも渡すと言っていたかな。働き詰めの僕らを気にかけてくれたらしいけど…まさかアッシュはもらっていなかったのかな?」
昨夜。セオドアの元に訪れた桃里は執務室にいないアシェルの所在を訪ねてきた。
禁苑かもしれないと思い彼女が去った後に一応様子を見てみたがそこに出入りした気配はなく、なんとなくあそこかとは思っていたが、その予想は当たっていたらしい。
みるみる青褪めていく弟におかしくなりながらも優雅な所作でティーカップを傾け、セオドアはちらりとアメジストの瞳を細めた。
「何があったかは聞かないけど。謝ることがあるならちゃんとしたほうがいいと、兄さんは思うよ」
言うやいなや、落としたマフィンをひっつかんで一口で食べると少し噎せながら「にいさん、あとはよろしく」部屋を駆け出していくアシェルに、やれやれとセオドアは肩を竦めた。
*******
廊下を全速力で走る主に、使用人たちが驚き振り返るも一瞬。
あっという間に駆け抜けたアシェルは客間の一画にある桃里の部屋の前で、乱れた呼吸を落ち着けるために大きく深呼吸する。
「……よし」
しんとした部屋の前で自分に言い聞かせるように呟くと、意を決して扉をノックしようとした。途端、扉が押されて行き場を失くした手のひらが宙に浮きたたらを踏んだ。
「あっ……アッシュ?」
せっかく意気込んだのも虚しく、先に開いた扉の向こうで桃里も驚いたように目を瞠っている。
「………」
「………」
他の場所と違い、最低限の世話や掃除以外では人払いをしているこの区画に使用人はいない。閑散とした廊下で、たっぷりとした沈黙が二人を包んだ。
その静寂を先に割ったのはアシェルの方だった。
「あ、…今少し、いいか?」
「え、ああ。えっと、いや、私も今アッシュのところに行こうと思ってて……入るか?」
シロエのものだろうか、見覚えのない淡い桜色の着物を着た桃里が少し体を避けて迎えようとしてくれる。
しかしはっとした彼女は慌てたように手を振った。
「いや!違う、此処はアッシュの家で……だからどの部屋もおまえが入るのは当たり、前ですし。私の家じゃないし、えっと、だから……その……」
今朝言ったことをよほど気にしていたのか、微妙な敬語の混じる奇妙な言葉遣いで珍しくしどろもどろしている桃里にじわじわと罪悪感が湧いてくる。
「…今朝は、俺も悪かった。だから…桃里がいいなら、入れてくれるか?」
本来なら女性の部屋に入るなど憚られることだが、ここでそれを言うとまた余計にこじれそうだと察して、アシェルは僅かに眉尻を下げた。
「あ、ああ!茶を淹れる!」
ぱっと顔を上げた桃里が踵を返して室内に引き返すと、ひらりと床に何かが落ちた。絨毯の上に音もなく落ちたそれはどうやら手紙のようで、アシェルは拾い上げたその宛名に瞬いた。
"to Asher・de・Sylph"
がたがたと途切れた線で書かれた字は子供のもののようだが、確かに桃里の書いたものだと気付く。しかし同時に桃里が振り返ったので、咄嗟にポケットに突っ込んでしまった。
「アッシュ、今日はうちの茶でいいか?晴人がちゃっかり持ってきていたのを見つけたんだ」
「あ、ああ。それで構わない」
招かれた桃里の部屋はよく見慣れた客間だが、そこに漂う不思議な香りはいつも彼女が纏っているものだ。
白檀という名の香だと前に教えてくれた。優しい木の香り(これもちゃっかり晴人が持ち込んでいたらしい。どこまでも底がしれない)。
「お湯を貰ってくる。適当に座っててくれ」
慌ただしく部屋を出ていく桃里を見送ってすぐ、さすがに室内を見渡すのはと思い視線をテーブルに落とすと、そこには綺麗にラッピングされたマフィンが置いてあった。
「…本当に悪いことをしたな」
手に取ったマフィンは兄が出してくれたものと違い少し固くなっている。あれはメイドがちゃんと温めなおしてくれていたようだ。
手のひらに伝わる少し寂しい感触。冷えてしまったそのマフィンは、まるで今の桃里そのもののようだった。




