第49話 喧嘩
朝日が上り切る前に城へと帰還したアシェルは本日二度目の困惑をしていた。
娼館まで正規の道程で来た桃里とイーニアスを連れて、帰りはアシェルの転移魔法で店裏の物陰から直接この執務室へと戻ったのだが(一人でお忍びの時はいつもその手法で抜け出していた)、戻ってくるなり目を離した隙に桃里がまた眠ってしまったのだ。
「私が部屋まで運びますよ」
ほぼ一晩中起きていて寝ぼけたまま連れ戻されたこともあるだろう。
そうわかっているのに執務室のソファーですやすや寝息を立てている桃里と、彼女を見下ろすイーニアスの柔和な笑みすら地味に癇に障る。
「…いや、そのままでいい。おまえも昨夜は寝ていないだろう?今日は下がっていい」
「ですが…」
「何かあれば呼ぶ。今日は兄さんもこっちにいるから大丈夫だ」
今日はセオドアが執務を執る日だ。何かあればセオドアを尋ねればいい。
言いながらブランケットを桃里にかけて、アシェルも早速執務に取りかかる。何せ昨日投げ出したものが無情にもまだ積み上がったままだった。
「ではお言葉に甘えさせてもらいます。…ご朝食はいかがなさいますか?」
「いらないと伝えてくれ。桃里が起きたら一緒に摂る」
「かしこまりました」
一礼して下がっていく背中を見送ってから、アシェルはようやく息を吐き出して机に突っ伏した。
(…しんどい)
自分が桃里に対してどういう感情を向けているかはっきりと自覚してしまっている今、今朝の寝顔といい、こうして安心しきって眠っている姿といい。かなりきついものがある。
(信用してくれているのは嬉しいが…それとこれとは別だろ……)
ぐりぐりと机に額を押し付けると、隙間の紙がぐしゃりとよれる。
「…人の気も知らないで」
ソファーの肘おきに置かれた丸い頭と、呼吸に合わせて微かに揺れる肩が憎い。執務室とはいえ一応男の部屋だぞと、心の中でアシェルは悪態をついた。
「ふあ…なんか久々によく寝た」
腕を伸ばしながらくあっと猫のようなあくびをして寝乱れた姿であぐらをかく桃里に、アシェルは思わずずり落ちているブランケットを投げてかぶせた。
「っなにするんだ」
もぞもぞと出口を探してぷはっと顔を出したその髪は、普段の癖毛に増してぼさぼさになっていた。
「そんな座り方をするな」
「私がどんな座り方をしようと別にいいだろ」
「よくない」
「なんでだ」
「っ…何でって、桃里は女子だろう。女子はそんなはしたない座り方はしない」
仁王立ちしたアシェルの小言に寝起きもあいまってか明らかに不機嫌になっていく桃里は、むすっと頬杖をして「うるさい」一言低く放った。
「なんだと?」
一瞬なにを言われたのかわからず眉根を寄せて見下ろした頭が不意にこちらを仰ぐと、その真紅の眼は睨むようにアシェルを見据えた。
「昨日から小言ばっかりだ。晴人でもそんなにうるさくない」
ぶちっと、それまで何とか抑えていた何かが音を立てた。蓄積されていたフラストレーションがみるみるうちに表に現れる。
「だったらそのお優しい晴人のところに戻ったらどうだ」
「はぁ?」
「ここは俺の執務室だ。人の部屋でぐーすか寝こけて好き勝手してるのは桃里の方だろう」
「…っ私だって好きでこんなところで寝たわけじゃない。気づいたら寝てしまってただけだ!」
いよいよ堪忍袋の緒が切れた。いや、既に切れていたのだが。アシェルはひょいっと、見かけによらないとよく言われる腕で桃里をブランケットごと抱き上げると、ほのままぽいっと部屋の外に追い出した。
「疲れてるなら夜更ししないで早く寝ろ!」
廊下に放り出されてぽかんとしている桃里を見下ろし、バタンっといつもより乱暴に扉を締める。
(…やってしまった)
こんなこと人生で一度もやったことがない。いつだって冷静で、落ち着きのある第二王子をやってきたというのに。
扉に背を預けてずるずると座り込みながら、この後いったいどうしたものかと結局また頭を抱えることになった。
成人祭まであと二週間。
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机の上にぽつんと置かれたマフィンを睨みながら雑に服を脱ぎ捨てた桃里は勢いよくソファーに倒れ込んだ。
ここ最近のアシェルは仕事に追われていた。そして桃里もまた神楽の練習や着物の仕立てに忙しなくしていた。
そのせいであまり話す機会がないと洩らした時、オリヴィアが提案してくれたのがお菓子作りだった。
諸々の用事を済ませた夕食のあと。厨房を借りてオリヴィアやメイドたちと一緒に作ったそれを、アシェルに渡そうと探していたのが昨夜だった。
結局渡せずじまいになってしまったマフィンは机の上で所在なさげだが、今更自分で食べる気にもならずにクッションに顔を埋める。
晴人も神楽鈴を作るために鍛冶屋に詰めていて、シロエもそれらの手伝いのために城を空けている。
今日はオリヴィアも朝から仕事があるらしく桃里はこの城に来てから初めて一人きりになった。
(…そりゃあ確かに最近気安くしすぎたかとも思うけど。…あんなに怒ることないだろ)
この国に来て城に招かれた頃はやはり他所の土地にいるという感覚と、礼儀として作法や振る舞いはちゃんとしなければと、(あれでも)多少は気を張っていた。
だから近頃はつい気が緩んでしまっている自覚があった。
シルフィルドに来て数ヶ月、季節は春から夏へと移り変わりこの城にも随分と慣れてきた。
顔見知りのメイドや使用人たちも増え、アシェルやオリヴィア達とも出会った頃よりずっと砕けて話せるようになった。
『親しき中にも礼儀ありですよ』
ふと頭に響いたのは少し前に晴人に注意された言葉だ。あの時も確かイーニアスと他愛ない会話をしていたように思い、今になって思い出したあれを守っていればとますますクッションに埋もれていく。
「――よし!」
しばらく埋もれていたクッションを放り投げて起き上がると、両頬を平手で包むように叩く。
そのままの勢いでソファーから飛び降りては、脱ぎ捨てた服を籠に放り込みクロゼットを漁って適当な着物を羽織った。
着付けもそこそこに、おもむろに引き出しから紙とペンを取り出すと意気込んで机に向かう。
「書くぞ」
謝罪といえば文だ。まだ桃里が生まれる前、よく母を怒らせた父は文に花を添えて謝っていたらしい。
まだこちらの文字には慣れていないが伝わってさえくれたらいいと思いながら、桃里は力強くペンを手にとった。




