第47話 夜明けの女神
部屋のソファーにゆったりと座るのはやはり見間違いではない、桃里その人だった。
普段のシャツよりも質素な、庶民が着るような長いワンピースを着てその上から古びたローブを羽織っている。
追い返すわけにもいかずとりあえず招き入れたもののこの後どうするべきか、不意打ちに近い状況で思考はほぼ停止していた。
「どうやって此処に入った?いや、それ以前にどうして此処に来た?」
寝乱れていたシャツを内心慌てて直しながら、アシェルは完全に頭を抱えている。
「屋敷の者に聞いて連れてきてもらった。使用人だと言えば入れてくれると。連れは外で待ってる。だから一人で来たわけじゃないぞ」
つまりイーニアスにこの場所を聞いてやってきたということか。
いくら桃里のことを知る人間は少ないとはいえ、以前のように見た目を変えたわけでもない変装程度で来るなどと。イーニアスは減俸だと心に決めた。
「怒らないでやってくれ。私が無理を言ったんだから」
何も言わずにお茶を出したリアンが、外したほうがいいかと目配せしてきたが小さく首を横に振ると、彼女は頷いて脇の椅子に腰を降ろした。
「此処は花街なんだな」
どういう場所か知らずに来たわけではないことはわかっていた。何より町全体の雰囲気や店の女を見ればよほど察しが悪くない限りはわかる。
(…終わった)
自分が娼館に出入りしているなど知られたくなかった。なぜイーニアスは連れてきたのか。そもそも普通、婦女子が近づく場所ではない。むしろ忌み嫌うまであるところだとイーニアスもわかっているはずだ。
「ふーん。これがアッ…レクの好きな酒か。私も一杯もらっていいか?」
「あ、ええ。もちろんいいわよね」
うっかり名前を呼びそうになりながらも訂正する程度に、桃里が冷静だと言うことも理解して更に頭痛が酷くなる。
彼女はきょろきょろと室内を見渡しふと目に入った酒の瓶をことさら興味深く見つめる。さすがに戸惑った様子を見せつつ、リアンは新しいグラスに酒を注いだ。
「…――おい」
「ん?」
さすがに本名は呼ぶのはどうかと思うも、咄嗟に他の名前など思いつかず、とりあえず普段はしないような雑な呼びかけをしてみるも桃里はあっさり反応した。
「此処がどういうところか、分かっていて言っているんだな?」
「だから花街だろう。わかってるぞ」
「花街は女が来る場所じゃない」
「そうなのか?」
初めて聞いたとばかりに驚く桃里に、驚いたのはアシェルとリアンの方だった。
そういえば彼女は此処にきてからまったく動じた風もなければ嫌悪した様子もないと思い至る。
「まぁ確かに女が入れない花街もあるらしいけど、私はよく連れていかれてた」
「…は?」
「親父と、親父の連れがたまに行っていた。酒を飲んで遊ぶ場所だろ」
「…ねぇ、それは本当にこういう店だった?」
グラスを傾け「これは美味いな」と、一人場違いな感想を洩らしている桃里に思わずリアンが問いかけた。
もしかすると少し違う、例えば酒場のようなものをイメージしているのかもしれない。そんな思いがリアンにもあったのだろう。
すると桃里はぺろりとグラスを空けて頷く。
「うん、女を買う店だろ?」
完全に理解していると察した。
「…わかってて、此処が、あたし達が嫌じゃないの?」
「男の嗜みで普通のことだ。親父は飲むだけ飲んでそのまま寝てたけど、他のやつらは起きるとだいたい違う部屋に女といた。別におかしなことじゃないだろう?」
「そ、そんなものなの…?」
リアンが動揺しているのを初めて見た気がする。もはや一周して頭痛も麻痺してきたアシェルはぼふっとベッドに倒れ込んだ。ドレスなんて非ではない、おそろしい文化の違いだ。
「まぁ他に女の客はいなかったし、私が特別だったのはあるかもしれないけど。男がこういう場所に来ることも、女が働いていることも別におかしくはない」
「ふふ…」
既に手酌をはじめた桃里に微かに笑ったのはリアンだった。
「確かに、これは大変だわ」
「?」
「あたしはリアン。よろしくね、えっと…」
「桃里だ」
何やら意気投合したらしく色々な話で盛り上がり始めた女子二人を横目に、アシェルはすっかり不貞てしまい一人ベッドの上で丸まった。
眩しい日差しに瞼の裏を刺激され、逃げるように身動いだ。なぜだがいつもより胸が温かい気がして、むずがるように顔を動かすと何かが頬に触れてくすぐったい。
「ん……」
自分じゃない声を不思議に思いながらゆっくりと瞼を持ち上げる。するとぼやけた視界一面に艷やかな黒が広がった。
波のように流れるそれが髪だと理解するまでにしばらく時間を要し、しかし次の瞬間アシェルは布団を蹴って起き上がった。
「……!!」
そこにいるのは間違いなく桃里で、彼女は長い黒髪を惜しみなくシーツに散らしてすうすうと寝息を立てていた。…よかった、服は着ている。
そんな当たり前なことを考えて安堵してから、その馬鹿げた思考に今度は悶絶しそうになってうなだれていると、控えめなノックの音が鼓膜に響いた。
「あら、起きてたの」
「リアン!」
「しっ、まだ寝てるでしょ」
昨夜は不貞寝した自分をよそに酒盛りを始めた二人がその後どうなったのかアシェルは知らない。
とりあえず何もなかった確信だけを持ってリアンを見上げると、彼女は夜の仕事姿とは違う簡素なワンピース姿でくすりと笑った。
「心配だったそうよ、彼女も」
「心配?」
「そう。最近はあなたと話す時間もなかったし、夜遅くに行っても部屋にいなかったから。それで昨夜は探し回ってたらしくて…見かねて外の彼が連れてきたみたいよ」
夜に一人で城を出る。まだ何も解決していないというのに今にして思えば軽率で不用心がすぎたと自分でも思う。
兄や妹にあれだけ口煩く言っておきながら、一時の感情に流されて身を委ねそうになったことも情けなかった。
「だから責めないであげてね、二人のこと」
「…完全に俺の落ち度だ」
「わかったなら彼女が起きたらさっさと帰りなさい。放ったらかした仕事が待ってるわよ。…それから」
リアンはそっと、アシェルの耳元にルージュの落とされた薄い唇を寄せる。
「この悪癖も、もう卒業しなさいね」
あまりにもっともな言葉はしっかりと胸の奥深くに突き刺さる。
後はもうなにも言わずにてきぱきと部屋を片付けて出ていく彼女にアシェルは少しだけばつの悪い顔をして、しかし自然と頭を下げていた。
自身の置かれた状況に文句も弱音も吐かず、世の清濁を併せ呑みひたむきに生きるリアンの姿に何度救われたことだろう。
アシェルにとっては彼女はやはり、シルフィアのような女性だった。




