第4話 盗っ人少年
――さあさあ寄ってらっしゃい!――
――ママー!お菓子買って!――
――今朝採れたばかりの魚だよ!――
――まぁ綺麗なブローチね――
それまで雑多な音としてしか認識していなかったものが、こうして一人で耳を澄ませているとひとつひとつが言葉であることに気がついた。
ぼんやりと人々の声を聞きながら、桃里はつい今しがたのことを思い返していた。実際ここに飛ばされてからまだ半日すら経っていないのだ。頭は混乱したままだった。
(いったい何でこんなことに)
思い返すのは穴が閉じる直前に見えた父の顔。いつも通りの不敵な笑みに、ほんの少しだけ覗いた寂しそうな色。初めて見た父のあの表情は今も鮮明に瞼の裏に焼け付いている。
「おい!!誰かそいつを捕まえてくれ!!」
腕を組んで考え込んでいた桃里の耳に、怒声が混ざったのは目を閉じてしばらくした時だった。怒気を孕んだ低い声に反射的に腰が浮く。
晴人に動くなとは言われたもののざわつく気配は気にかかり路地裏から顔を覗かせると、表通りの中心に人だかりができていた。
壁のような人の隙間から中を覗いてみると、棒を持った大柄な男が子供の首根っこを引っ張り掴みあげている。
「はなせっ、はなせよ!」
男に掴まればたばたと暴れていたのはまだ年端もいかない子供で、小さな腕にはなにかを大事そうに抱えていた。
「この盗人が!パンを返せ!」
なるほど、物盗りの部類だったか。どの国にもいるものだ。そう思いながら子供を見ると、その身なりはみすぼらしく明らかに孤児と察せるものだった。
太い腕で掴みあげられながらも子供が負けじと睨みつけると、頭に血が上ったのか男は片手に持っていた棒を振り上げた。
ごつんっと鈍い音が響き、一瞬にして周囲が静寂とする。
男が棒を振り上げた瞬間、桃里は一足飛びで人垣を飛び越えて渦中に飛び込んでいた。鈍い音は桃里の右腕に棒がぶつかったものだった。
「御仁」
静寂を破る凛とした声。棒を受け止めたまま腕の隙間から男を見上げた桃里は小さく微笑んだ。
「子供のしたことだ。もう勘弁してやれ」
突然現れた桃里に呆けていた男は、はっと我に返ると慌てて腕を払いのけた。
「このガキはここいらじゃ有名な物取りだ!よそ者は黙ってろ!」
男を始め、周りの人間の反応からしてもそれは事実なのだろう。どうしたものか、桃里はそのまま少し考えてから、ふと思いついておもむろに髪に挿していた簪を抜き取った。
結い上げられていた黒髪が落ちるのも構わずに、躊躇いなくそれを男に差し出す。
「今日はこいつで手打ちにしてやってくれないか?」
「はっ…なんだこんな、女のバレッタ…なのか…?」
「悪いが私もこれくらいしか持ち合わせがないんだ」
男は細かい装飾が施され、赤い石が嵌め込まれた簪をまじまじと見つめている。
「ここでの価値はわからないけど私の国ではそれなりだと思う。……たぶん」
やはり金でないとだめだったかと思いつつも、簪に気を取られているうちに子供を片手で引き寄せた。
「ちょいと旦那、そいつを俺に見せておくれ」
するとそこに横槍を入れてきたのはまた別の男だった。身なりからしておそらく商人かなにかだろう。
「ほう…こりゃあ随分いい品だ。金がいいなら俺が買取るぞ。千…いや、三千フゥロ出してもいい」
「三千だって!?」
商人風の男の言葉に遠巻きに見ていた人々も一気に湧き上がると、途端に人並みが押し寄せてきた。
その隙に桃里はどさくさにまぎれて子供を抱えてその場を抜け出す。
(まずい…目立ちすぎた)
また晴人にどやされると内心うんざりしつつとりあえず人目のないところを探して歩く途中、「あっ、あの…!ちょっと!」聞こえた声に、そういえば子供を掴んだままだったと立ち止まった。
「ああ、悪い。大丈夫だったか?」
首を傾げた桃里に子供は大きく頭を振る。
「おれより、姉ちゃん大丈夫なの…!?」
「何が?」
「何がって…腕!」
「ああ、これか」
まだ賑わっている表通りから少し入った路地裏で、桃里はそっと膝を折った。子供と目線を合わせながら、着物の袖口を持ち上げる。
「あれ…」
腫れてもいなければ痣もない、綺麗な肌をまじまじと見て子供は驚き目を見張った。
「私は人より少し頑丈だから、あれくらいどうってことない」
「…そっか、よかった。…あ、あの、ありがとう」
初めて表情を崩して目を赤くする子供に、桃里は無意識に手を伸ばし茶色く汚れた髪をくしゃくしゃと撫でる。
「な、なに…」
「いや、おまえはこの町の子供か?」
「え、……うん、一応」
「そうか」
桃里は撫でていた手を下ろすと、しばらく思案してからもう一度子供を見上げた。
「実は私はついさっきここに来たばかりで困ってるんだ」
「姉ちゃんは他所の国から来たの?」
他所の国、そう言われても桃里自身まだいまひとつピンとは来ていなくて曖昧に頷くしかできなかった。
「だからそうだな…もしおまえがいいなら、この町を案内してくれないか?」
「おれが?」
戸惑う子供を前に桃里は柔らかく微笑んだ。
「もちろんちゃんと礼もする。望むものをやれるかはわからないけど…それでもよかったら助けてもらえるとありがたいんだが」
そう言って握手を求めた桃里にまだ訝しむような顔をして逡巡してから、子供は小さく頷いた。
「ありがとう。実は文字も読めなくてどうしようかと思ってたんだ」
本当に安堵したような桃里の声音に吹き出した子供は、年相応のあどけない笑顔で目元を拭いぎゅっ手を握り返した。
「読み書きはあんまりだけど、簡単なのならおれもわかるよ!」
「そうか、頼りにしてる」
少し誇らしげにする様子に微笑んで立ち上がった桃里を見上げて、今度は子供の方から問いかけた。
「おれはレオ。姉ちゃんは?」
「桃里。 天使桃里だ」
「トーリ……、トーリ!よろしくな!」
先程までの暗い瞳に微かに光が宿ったのを見て、桃里も少し気持ちが軽くなった気がした。
「よろしく、レオ」
そんな緩んだ空気の向こうから、不意に怒気が近付いてきた。ああこれは今日の夕餉が遠くなりそうだ。
そう他人事のように考えながら桃里は小さな手を取って、光が差し込む表通りへ歩き出した。




