第37話 おにぎりと憂鬱
桃里と出かける時間をもぎ取るため、夜通し執務に励んだアシェルはしかし、絶望とともに朝を迎えていた。
(…やってしまった)
順調に書類を片付ける合間、さすがに霞みはじめた目を少し休めるために瞼を落とした。本当に少しだけのつもりだった。
が、そこで記憶が綺麗に途切れている。
仕事はもちろん終わっていない。アシェルは執務机にうつ伏せたままいよいよ絶望的な気分になっていた。
カーテンの細い隙間からでもわかる、背中に感じる温かさは朝の日差し。遠くに聞こえるのは目覚めを報せる可愛らしい小鳥のさえずり。ああ…これはどう考えても朝だ。
きっともうすぐイーニアスがやってくる。あまりメイドや執事に世話をされるのが好きではないアシェルのために、彼は近衛兵以上の仕事を担ってくれていた。
いっそこのままもう一度寝てしまいたい。ぐずぐずと子供のようなことを考えながら、痺れた腕に顔を押しつけごねていた時だった。
「おはよう」
そうはっきり聞こえた声に、アシェルは弾かれたように顔を上げた。
執務机の前に屈んでこちらを見つめている紅い瞳。いや、そんなはずはない。こんな朝早く、それもこの執務室に桃里がいるわけがない。
ここ最近、彼女のことばかり考えていたからついに夢の中にまで現れはじめたのだろう。そう、だからこれはきっと夢だ。
ぱたり、アシェルは再び机に突っ伏した。
「…寝ぼけてるのか?まったく。アッシュ、朝だ。というかもう昼前だ」
シャッと軽やかな音を立ててカーテンが開け放たれる。その明るさは確かに朝日なんて優しいものじゃない。
アシェルは動揺を隠しきれないまま桃里の方へ振り返る。
「おはよう。それからお疲れ様」
まばゆい光を浴びた黒髪がきらきらと輝いている。そこにいるのは夢ではない、確かに現実の桃里だった。
「…なんでここに」
「ジュリアが教えてくれた。イーニアスが出向いたらすっかり寝転けていて起きそうもないから、今朝の稽古はなしだって」
落ちていたブランケットを拾う桃里をまだ寝惚けた目で追いながら、アシェルはようやく状況を理解した。
(イーノのことだ、夜も覗きにきてたんだろうな…)
桃里が畳んでいるブランケットがその証で、あれは深夜に一度ここに来たイーニアスがかけてくれたものだろう。
「目は覚めたか?飯は?」
ソファーにブランケットを置いて向き直った桃里はいつも通りのシャツスタイルで、おそらく今朝も一人で朝稽古をしていたのだろう。
あの魔獣事件から、桃里はいっそう熱心に稽古にはげむようになり、晴人は「ようやくやる気になったようで何よりですね」などと言いながら彼女をコテンパンに伸していた。
「いや…食事はまだ」
寝起きにすぐ食べられる方ではない。アッシュは短く断りを入れるも、「そうか…」としゅんと応接用のテーブルに向けられた桃里の視線を追った。
「それは?」
いつもメイドが運んでくる朝食(もう昼近くだが)といえば、あまり食べないアシェルに合わせてサラダと卵程度のものだ。
しかし今そこにあるのは不思議な形の、おそらくライスの塊だった。
「おにぎり」
「オニギリ?」
「米、こちらではライスか。ジュリアに訊いたら残っているというから握ってきた」
「誰が?」
「私が」
均等な大きさで綺麗な三角形をしたオニギリが三つ。ちょこんと皿に乗っている。
「具はえっと……しーちきんと、梅干しはなかったから、代わりに何かの実の塩漬け。あとはただの塩だ」
どうだとばかりに胸を張る桃里にアシェルはぱちぱちと目を瞬かせた。
「桃里は料理ができるのか」
「握り飯くらい誰でも作れる。疲れてるみたいだったから本当はもっと精のつく、猪か鹿でもあればよかったんだけど」
「まさかとは思うが、肉も捌けるのか…?」
「誰でもできるだろ。私は狩る方が得意だけど」
ナマコ事件の時から薄々感じていたが桃里は本当に野生児、いや、自給自足が得意らしい。
アシェルは背もたれに深く持たれて天井を仰ぎ見た。
またひとつ、彼女の意外な一面(意外でもないが)を発見した喜びよりも、気遣わせてしまった情けなさが勝ってしまう。
「まぁおにぎりは冷えても美味いから。というか残り物だから元々冷えてたし。口に合わなかったら私が食べる」
「それは駄目だ…!」
勢いよく起き上がったアシェルは驚いた顔をする桃里の脇を抜けて、ソファーにすとんと腰を下ろした。
「せっかく桃里が作ってくれたんだ。今食べるよ」
「でも腹は減ってないんじゃ」
「今減った」
そう言って手を胸に当てていただけますと祈ってから、ふと皿の周りを見渡した。
「フォークはないのか?」
「おにぎりは手で食べるものだ」
「手で…パンみたいなものか」
「うん、そんな感じ」
ライスを手掴みするという衝撃に少しばかり動揺しつつ桃里の言うとおりオニギリを手に取った。
「それにしても凄いな。こんなに同じ形で握れるものなのか」
「きゅっきゅってするだけだ。簡単、簡単」
向かい側に座った桃里は握るときのジェスチャーをしてくれたがいまいちピンとはこない。この国でのライスと言えば平皿に添える程度で、普段の主食はどちらかというとパンの方が多い。
「じゃあひとつ。――ん…」
「不味かったか?」
一口含んで固まってしまったアシェルに桃里の腰が僅かに浮いた。
「いや、…美味しいよ」
確かに冷えてしまっているがあっさりしていて、それでいて塩味があって食べやすい。具とライスの組み合わせも初めてだったが意外なことによく馴染んでる。
何よりこれを桃里が自分のために作ってくれたのだと思うとこれ以上の調味料はいらなかった。
三つもあったオニギリが、あっという間に消えてしまった。
「ごちそうさま」
「口にあったみたいでよかった」
ほっと安堵したような桃里の様子に、彼女もきっと不安だったのだろうと気づく。
アシェルは手を布巾で拭きながらでようやく一息つき、そして小さく呟いた。
「…気を遣わせてしまってすまない」
「違うぞ」
「違う?」
先程までの表情とは一転、満足そうに笑った桃里はそっと口元に指を立てた。
「そういうときは、ありがとう、だろ?」
まさにしてやったり。そんな顔で小首を傾げて悪戯っぽく笑う彼女の姿に、陰鬱な気分が一瞬で晴れた。
「そうだったな…ありがとう。桃里。本当に美味しかった」
「うん」
さてと、と立ち上がった桃里は空になった皿と布巾を持ってさっさと扉の方へ向かっていく。
「もう行くのか?」
「うん、今からリヴィと勉強の時間なんだ。アッシュもまた仕事だろう」
「…そうだった」
思い出したくはなかったが、昨夜やり残した仕事がまだ執務机の上にはどっさりと積まれている。
「あまり無理はするな。でもまた私と遊んでくれ」
そう言い残して出ていった桃里を見送ってしばらく。結局アシェルは何もやる気になれず、イーニアスが来るまでソファーに埋まってただ天井を眺めていた。
今夜も徹夜決定だ。




